「福岡」の炭鉱跡 その6 「直方市石炭記念館」 屋内

驚異的な路線網
DSCN2081.jpg
 炭鉱全盛期の「福岡」の路線網は、とにかく大都会並みに驚異的です。黄色やピンクのマークが炭鉱です。

 「福岡市」近辺にもかなりの炭鉱があり、当時は「勝田線」も通っていました。よく見たら、「西戸崎」にも炭鉱がありました。

 「直方市」周囲はさらにすごいです。今でも相当な路線が残っていますが、炭鉱時代はとにかく隙間を埋めるように鉄道網が敷かれていました。「直方」(黄色円)がこれらの路線網の合流地点であることがよくわかります。

 「直方駅」も非常に広大で複雑な配線をしています。プラットホームと比較しても、貨物用の停車線が非常に長くしかも数が多いのがわかります。転車台もかなり大規模です。

切り出された巨大石炭(2t、2m×1.1m×0.75m)
DSCN2072.jpg
 昭和40年(1965年)に五尺層から切り出された石炭の塊で、7300カロリーもの発熱量があります。通常石炭は細かく削り取って採掘するため、これだけの大きさを切り出すことは本当にめったにないことです。

石炭とボタとシャモット
DSCN2075_201802102009332c1.jpg
 黒色医師が全部石炭なわけでなく、つやのある石炭と石炭分が少ないボタに分けられます。このボタはズリとして排出され、それが積もった山が今まで紹介したボタ山です。このボタ山も石炭分が多少含まれているため自然発火することはあります。
 ボタを燃焼させたものが右端のシャモットで、道路などの建築砕石に再利用されました。ボタ山は砕石の宝庫でもあったのです。

世界一白い石灰石
DSCN2070.jpg
 「福岡県」では石灰岩の採掘も結構行われていますが、それがかなり白いです。

坑道を支える工夫
DSCN2084.jpg
 坑道が崩落しないよう、様々な形で支保措置が行われました。地山の硬さや地質、圧力分布などにより形態を変えています。

巨大チェンソー
DSCN2080.jpg
 これで石炭を塊として切り出すそうです。勿論本物です。

ダイナマイト
DSCN2059.jpg
 坑道を掘り始める?時に使用されたと思われます。可燃性の高い石炭層ではとてつもなくリスクがありそうなので、恐らく石炭層へ向かう際に使用したのでしょう。配線は安全を考慮して明確な色分けがされています。

石炭の標本
DSCN2057.jpg
 様々な形態の石炭が数多く保管されていました。

救命装備
DSCN2060.jpg
 炭坑内での事故を想定して、様々な救命用の装備が造られましたが、これも年代ごとに展示してありました。

「山陽新幹線」の線路
DSCN2054.jpg
 館内には、鉄道の線路も展示してありました。

人力車発祥の地
DSCN2089.jpg
 「直方市」は人力車を発明した「和泉要助」の出身地でもあります。

斤券 ペリカ
DSCN2064.jpg
 炭鉱ごとに炭鉱限定の紙幣が発行されていました。炭坑内の食料や娯楽品などをこの券を介して売買させることで、金の外部流出や持ち逃げを防いだのです。

そうそうたるメンバー
DSCN2061.jpg
 この会議所には、写真で写っている有名人が多数集まっていました。会議所自体も建築にかなり力を入れており、天井も豪華な装飾をしています。

スポンサーサイト

「福岡」の炭鉱跡 その5 「直方市石炭記念館」 屋外

 「福岡県直方市」は、「小倉」~「博多」の中間に位置する「山陽新幹線」新駅のうわさもある街ですが、こここそが「筑豊炭田」の物流が集結する場所です。

 そして、ここにある「石炭記念館」は、非常に濃い展示物が目白押しの博物館です(100円)。鉄道博物館でいう、「新津鉄道資料館」みたいなところです。

無題
(Yahoo地図より)
 「直方市」は、南の方は「飯塚」と「田川」という、「筑豊炭田」の中でも大規模な探鉱群のある街と鉄道路線でつながり、北の方は製鉄所のある「北九州市」と繋がっています。つまり、炭鉱で採掘された石炭は「北九州」の製鉄所や搬出港へ運ばれますが、「直方市」はその途中の合流点+炭鉱の発展で非常に栄えた街です。「直方」こそが「筑豊炭田」の代表格と考えている方も多いそうです。

 そして、かつて機関車の運転士をしていた記念館の館長が、石炭の歴史から偉人の逸話、鉄道に関する話などを多岐にわたり丁寧に快活に説明してくれるため、規模が小さい施設ながらも1時間以上はじっくり見られます。

「石炭記念館」=近代化をけん引した「筑豊石炭鉱業組合直方会議所」
DSCN2046.jpg
 「石炭記念館」の本館こそが、「日本」近代化の本当の原点となった施設です。ここから「筑豊炭田」採炭作業の近代化が促進され、石炭を元に鉄道や製鉄などの発展といった近代化に無くてはならない産業が爆発的に増加したのです。
 白黒写真は竣工当時の「筑豊石炭鉱業組合の直方会議所」です(明治43年(1909年))。
 この写真には、「麻生太吉」、「貝島太助」、「安川敬一郎」、「伊藤伝衛門」、「掘三太郎」などの石炭界でも政財界でも超大物な人たちが集合しています。


「C-11-131号蒸気機関車」
DSCN2041.jpg

DSCN2051.jpg
 昭和16~45年(1941~1970年)の30年間石炭輸送で活躍しました。走行距離は約130万kmで地球32周分。計算すると、1年で約43333km、1日に118.7kmも走ったことになります。
 この時は、修復工事というかなり珍しい状況になっていました。

「コベル32号蒸気機関車」
DSCN2045.jpg

DSCN2049.jpg
 大正14年(1924年)~昭和51年(1976年)の52年間活躍した「ドイツ」式の蒸気機関車です。「ドイツ」製の機関車が展示してあるのは「日本」でここだけらしいです。

救護訓練坑道
DSCN2091.jpg
 炭鉱は、最も危険な現場でもあります。ほかの鉱山と同様、落盤や有毒ガス、酸欠などの災害に加え、可燃物の中での作業のため燃焼や粉じん爆発の危険もあります。そのため、遥か昔から安全対策の確立と研鑽がつまれてきました。その一つが訓練坑道で、実際の坑道のようなコンクリート製模擬トンネルを造りました。全長は117m、傾斜角は20°あり、中は事故後の坑道と同じく真っ暗である程度曲がりくねっています。
 真ん中の車両は、圧縮空気で動くものです。

DSCN2097.jpg
 この訓練坑道で、実際に炎や煙を発生させたり、完全防備状態で迅速に被災者を救援する訓練が行われ続けました。

郊外用電気機関車
DSCN2095.jpg
 坑道外で走っていたミニな電気機関車です。主に作業員やその家族が乗った車両を運んでいました。

石炭の源となる木
DSCN2094.jpg
 メタセコイア(アケボノスギ)です。原生は、「中国」とも「北米」ともいわれています。「筑豊炭田」の石炭は、3000~5000万年前の植物由来です。

珪化木
DSCN2053.jpg
 地中に埋まった木に、土圧により土砂中のケイ素が浸入してできた木の化石です。これも石炭とほぼ同じ年代だそうです。

複々線区間
DSCN2101.jpg
 地方では珍しい複々線区間があります。右2線がJRの「筑豊本線」で、左2線が「平成筑豊鉄道伊田線」です。この複々線区間は1kmちょっと続いて二手に分かれます。かつてはすべての線路で頻繁に炭鉱列車を走らせていました。

転車台を転用した跨線橋
DSCN2052.jpg
 鉄道合流地点の「直方駅」には複数の転車台があり、引退したものを跨線橋として再利用しています。

「福岡」の炭鉱跡 その4 「田川」の石炭記念公園

 「福岡県」内に広がる「筑豊炭田」の炭鉱跡は、県内のいたるところにあり、そのひとつが「田川市」内にあります。
「田川市」は、「筑豊炭田」でも最大級の規模をほこる炭鉱群の街で、炭鉱産業全盛期の人口は現在の2倍以上(10万人以上)もありました。しかし石油産業への移行や資源採掘の困難化(枯渇や取りにくい場所にしか残らない)で昭和46年(1971年)に完全閉山されました。現在では、その跡地の一部が「石炭記念公園」や博物館として運営されています。

「田川市」の位置
無題
(Yahoo地図より)
 「田川市」は、「福岡」と「北九州」の中間に位置します。この地域は「筑豊炭田」の真ん中に位置し、地図を見てもかなり過密な鉄道網が敷かれているのがよくわかります。これでも炭鉱閉山後にかなりの路線が廃止されているので、全盛期の鉄道網は大都会並みにすさまじかったです。


「田川」のボタ山と石灰の露天掘り
DSCN2445.jpg
 「田川市」の風景です。写真真ん中は「飯塚」(その1)や「志免」(その2)でも紹介したボタ山です。その後ろの平たいメサみないな山は、現役の石灰石露天彫り鉱山です。

「田川後藤寺駅」
DSCN2461.jpg

DSCN2458.jpg
 「田川市」の主要駅である「田川後藤寺駅」の様子です。この駅も炭鉱産業により非常に栄え、現在でも4方向に(3方向に分岐)線路が広がっています。貨物列車を扱う長大な線路が何本も並行しています。かつては空き地になっている場所にも線路や鉄道設備がありました。

「石炭記念公園」
 「石炭記念公園」は、「筑豊地方」最大の炭鉱であった「三井田川鉱業所伊田坑」の跡地にあり、かつての竪坑櫓や鉱業所の煙突が残っています。

DSCN2456.jpg
 園内には、当時石炭輸送で活躍していた「9600型」です。

DSCN2448.jpg
 「伊田竪坑櫓」と鉱業所の煙突です。

DSCN2450.jpg
 「伊田竪抗」は明治43年(1910年)に完成した明治時代の「日本」三大竪抗で、深さは362mもあります。エレベーターは2段式の構造になっています。

「田川市石炭・歴史博物館」内
 博物館内には、炭鉱の歴史資料や実際に使用されていた機械などが展示されています。

DSCN2428.jpg
  この機械は、切羽先端で自走して採掘した石炭をベルトコンベアーで貨車に積むものです。作業上線路を敷けない前線では、無限軌道によるミニダンプで採掘をしています。

DSCN2429.jpg
 坑道内や地上の鉱業所には、このような転車台がありました。転車台はトロッコ1両分のミニサイズで、線路が2本直交して配置されています。2本配置するとそれだけ転車台を回転させる手間が減り、輸送効率が上がります。トロッコは、写真に写っているワイヤーでも動かしています。

DSCN2430.jpg
 作業員輸送用客車です。観光地のトロッコ列車みたいです。

DSCN2436.jpg

DSCN2438.jpg
 切羽前線で石炭層を掘削した、掘削機です。

「福岡」の炭鉱跡 その3 「勝田線」の「志免駅」跡

 「志免鉱業所」をはじめとする、「志免町」周囲には、かつて「勝田線」が通っていました(昭和60年(1985年)廃止)。

「勝田線」の位置
無題
(Yahoo地図より)
 「勝田線」は、「吉塚」から「宇美」、「筑前勝田」間の全長13.8㎞の路線で、現存の「香椎線」とほぼ並行していました。こうして地図を見ると、「筑豊炭田」繁栄から「福岡県」の鉄道網は非常に過密です。矢印部が「志免駅」跡の位置です。

「志免駅」跡から見た竪坑櫓
DSCN2525.jpg
 「志免駅」は鉱業所より谷部にあり、竪坑櫓がちょい高台にあるため、よりいっそう櫓が見えます。

「志免駅」ホーム跡
DSCN2529.jpg
 「志免駅」跡は、現在道路で真ん中を分断されていますが、ホーム跡や当時の線路がくっきり整備されて残っています。この写真は、「博多」側から撮りました。ホームは写真真ん中奥まで続きかなり長いです。炭田として、長大貨物列車の運用をしているためです。

DSCN2527.jpg
 同じ場所から反対側の「博多」側を撮影。このまま先まで続いていそうです。

DSCN2524.jpg
 道路反対側から撮影。道路がボームを完全に分断しているのがわかります。

DSCN2528.jpg
 当時のものかわかりませんが、駅名版もありました。

腕木信号機
DSCN2518.jpg
 なつかしの腕木信号機がありました。現在は電灯で表示しますが、当時は完全アナログでした。

犬釘
DSCN2514.jpg
 犬釘が抜けかけていました。おかげで構造がよくわかりました。

「福岡」の炭鉱跡 その2 「旧志免鉱業所」跡と竪坑櫓

 「博多駅」から10km近く東側にも、昭和39年(1964年)までは大規模な探鉱設備がありました。正式名は「志免鉱業所」です。

「志免鉱業所」
・明治22年(1889年)~昭和39年(1964年)に創業
・「日本」で唯一終始国営であった
・深さ150~600mにちょい褶曲した石炭層が介在
・世界に3つしかない巨大竪坑櫓が現存する(他は「中国」と「ベルギー」)
・立坑櫓スペック
 高さ47.6m、15.3m×12.3m四方、立坑深さは430m、巻き上げ機は1000馬力


無題
 「志免鉱業所」は、赤丸の位置にあります。もろ「福岡」市街地に近いです。

立坑櫓
DSCN2494.jpg

DSCN2505.jpg
 この竪坑櫓は今から78年も前の昭和15年(1940年)に完成しました。周囲はボタ山を除くとほぼ平野のため、遠目からでも非常によく見え、長らくこの地域のランドマークとなっています。数年前まではすぐ近くまで立ち寄れましたが、流石に劣化したコンクリートの落下の危険から周囲30mほどに柵が設置されています。

DSCN2508.jpg
 櫓の上部は大空間になっていて、かつては巨大な巻き上げ機が収められていました。

DSCN2496.jpg
 櫓自体は上が重量物の巻き上げ機や頑丈な壁付き建屋が置かれ、下部が最小限の柱と梁のため、頭でっかちで土台はかなり頑丈に作られていそうです。なんだか国鉄時代の新幹線の高架橋と雰囲気が似ています。

DSCN2498.jpg

DSCN2481.jpg
 竪坑櫓と鉱業所の説明を載せておきます。

DSCN2492.jpg
 立坑櫓の周囲にも、坑口をはじめとする探鉱設備跡がよく見えます。奥の丘は、ここのズリを積み重ねてできたボタ山です。

「第八抗連卸坑口」
DSCN2488.jpg

DSCN2510.jpg
 煉瓦製の斜坑で昭和13年(1931年)に完成しました。傾斜角は約30°、全長929.1m、推定落差約450mもあり、ここからボタや資材、人の運び出し、ライフ設備の運搬などが行われていました。

「第五西側坑口」
DSCN2491.jpg
 かつてはベルトコンベアーが通されたそうで、5°の傾斜で造られ、竪抗から上げられた石炭をこの坑道で輸送していたそうです。

ボタ山の露頭
DSCN2534.jpg
 個々のボタ山には、緑化されていない露頭崖が見えました。よく見ると黒みがかっていかにも品質が風化している、もしくは発熱・燃焼した後のような白色も呈しています。

「福岡」の炭鉱跡 その1 「飯塚」のボタ山」

 「九州」北部は、かつて炭鉱産業が非常に栄えていた地域でした。その一つが社会の授業でやった「筑豊炭田」で、「福岡県」内には、その跡地がいたるところにあります。

 今回紹介するのは、「飯塚市」に残るボタ山です。

「飯塚」のボタ山の位置
無題


ボタ山
・石炭の採掘で発生した、石炭濃度が低い残土砂を集積してできた山
・多少なりとも石炭成分を含んでいるため、自然発火することが多い
・燃え尽きたボタ山の残土砂は、アスファルトの材料などに再利用される
・賢い人は、ボタ山を私有地として買い取り、土砂を売り、その後の更地を土地として所有する二重の儲けを得た

「飯塚のボタ山」
・高さ:141m
・面積:22.4ヘクタール
・量:10tトラック70万台分

炭鉱現役時代の「飯塚」のボタ山

Botayama_at_Iizuka_City_in_1950s.jpg
(Wikipediaより)
 炭鉱現役時代のボタ山です。当時は、石炭色がよく出ているズリ山でした。土砂は長大ベルトコンベアーで頂上まで運びます。周囲の建物は、炭鉱関係者の住宅地です。

Tadakuma-botayama_stereo.jpg
(Wikipediaより)
 形成当時のボタ山は、噴火したての火山(「西ノ島」みたいな)のように見えます。傾斜がかなり急なため、浸食されて谷状にもなっています。

現在のボタ山(「飯塚駅」より)
DSCN2463.jpg

DSCN2464.jpg
 ボタ山は現在でも明確に残り、「飯塚」市内からよく見ることができます。山は完全緑化され、説明されないと普通の山にしか見えません。「飯塚駅」は炭鉱列車がかつては盛んに走っていたため、敷地がかなり広大です。

DSCN2465.jpg
 ボタ山は全部で3つあります。3か所で投下をしていたため、そこを中心に周囲が円錐形の山となっています。複数の火山形成でもこんな感じになります。

ボタ山の麓より
DSCN2467.jpg

DSCN2474.jpg

DSCN2470.jpg
 ボタ山は登れません。麓に近寄るのが一般的には精一杯です。見た目は「ドラえもん」の学校の裏山のようです。

「鯛生金山」 その4 色々な鉱山地図

 せっかくなので、「鯛生金山」の色々な坑道地図を紹介します。

地質図
20171125_121439.jpg
 「鯛生金山」は変質した安山岩をはじめとする、火山岩主体の地域です。この安山岩の変質帯に侵入した熱水により金銀などの鉱物が濃集しました。一部に「阿蘇山」の溶岩や「九州」にはよくある花崗岩も分布しています。


鉱脈分布
20171125_113047.jpg
 鉱脈は、かなり高角度で分布しています。熱水が地下深くから割れ目沿いに噴き出したのでしょうか。

坑道概略図
20171125_113229.jpg
 坑道は、他の鉱山と同様30m毎に横坑を張り巡らしています。最深部は地下510mで、横坑は18段あります。毎度おなじみの「東京タワー」比較が冴えわたります。

坑道ルートマップ、断面図
20171125_120506.jpg
 精密な測量と地質調査により、各段ごとに詳細なルートマップと断面が製作されています。緑枠で囲ってあるのが、観光のできる範囲で全体からしたら本当に一部です。

立体化したルートマップ図
20171125_122034.jpg
 平面図を各段ごとに分類し、引き出し方式にわかりやすく整理してありました。建物間取り図の階ごとの表示と同じです。これで、全ての坑道が網羅できます。

坑道立体地図
20171125_122229.jpg
 各鉱山でも恒例のわかりやすい立体地図も展示してありました。高角度で分布する鉱脈に届くよう、非常に立体的多断的に坑道が掘られています。ある意味、地質図に近い表現です。

20171125_122118.jpg

20171125_122154.jpg
 観光坑道を明示してみました。本当にごく一部です。オレンジ色の立坑も見えます。

20171125_122128_20171223205338525.jpg
 「第1立坑」の断面もよく見えます。観光でのぞき込めるのは、当然ながらオレンジ棒の最上部です。立坑の模型は、ちゃんと巻き上げ機のロープを収める分、上に飛び出しています。展示説明を参考に、現在の水面位置も書き込んでみました。

「鯛生金山」 その3 展示鉱物など

「鯛生金山」の坑道外を紹介します。

DSCN2696_20171223211119bf7.jpg
 本洞の外にも枝洞の坑口が見えます。簡易手押し?車両もありました。

DSCN2731.jpg
 近くの屋外には、精錬所もありました。ここにトロッコで運ばれた鉱石が粉砕、選定されていきます。

「九州」の金山の鉱石
 金鉱山は、鉱石1tあたり4~5g以上の金が算出出来て採算が合うといわれています。鉱脈内にも金が濃集する場所があり、その内外でムラがでますが、集中する場所にはこれだけの金が含まれます。

20171125_121229.jpg
 展示鉱石は、「鯛生金山」をはじめ、かつて「九州」で繁栄を極めた「大口金山」、そして現役バリバリの「菱刈金山」の鉱石などが展示されています。ここにある「鯛生金山」の鉱石は、1tあたり400g(約20ml)もの金が含まれています。

20171125_121241.jpg
 「大口鉱山」の鉱石です。金は1tあたり2075.7g(約107ml)です。岩石の比重を2.5と仮定すると、含有堆積は0.027%です。
 体積ではかなり小さいように見えますが、鉱石としてはかなりの量です。金が含まれる場所は、鉱石の黒帯部分の真ん中です。ただし、鉱石を割ってルーペで見ないとよくわからないです。

20171125_121256.jpg
 拡大写真の黒帯内に金があるはずです。

20171125_121723.jpg
 「菱刈鉱山」の金鉱石です。金はなんと1tあたり19.6kg(約1.015L)です。岩石の比重を2.5とすると、含有堆積は約0.25%です(「コナン」の世界で、犯罪者が高跳びに成功する確率説の2倍)

20171125_121737.jpg
 何やら金らしき色が若干見えます。これだけの含有量では、肉眼でもわかるのです。

20171125_121851.jpg
 これも「菱刈鉱山」の鉱石です。金山では通常金だけでなく銀も取れますが、「菱刈鉱山」の鉱石はどちらも含有量が群を抜いています。

WC「カメルーン」のキャンプ地
20171125_122400.jpg
 2002年「日韓ワールドカップ」の時、「カメルーン」代表が「中津江村」でキャンプをしました。キャンプ地は「鯛生金山」のすぐ近くのため、何かと縁ができています。

20171125_122425.jpg
 金山らしく、黄金色のサッカーグッズも展示されています。

DSCN2729.jpg

DSCN2730.jpg
 キャンプの時期に、記者会見を行っていた場所です。

DSCN2736_201712232114255c8.jpg
 キャンプ地として使用されたグランドです。結構秘境地にありました。

「鯛生金山」 その2 「第1立坑」を覗いてみる

 「鯛生金山」の最大の見どころは、深さが510mもある立坑の中を覗き見れることです。これは、他の鉱山跡では中々見ることのできない景色です。

立坑エレベーターの巻き上げ機
無題
 立坑は、上下の坑道を垂直に結ぶ連絡坑道で、これを介してエレベーターにより上層と下層の作業者や鉱石、機械を運搬しています。立坑エレベーターの巻き上げ機は、立坑から少し離れた大空間に設置され、巻き上げ機のロープは斜め上の孔を通して立坑の真上に這い、エレベーターに繋がります。

20171125_111024.jpg
 エレベーター巻き上げ機です。巨大な歯車が幾重にも並び、左上にエレベーターへ繋がるワイヤーが張られています。

20171125_111039.jpg
 エレベーターにつながるワイヤーを上に眺めます。ワイヤーを通すために、斜め上に孔が掘られかなり上まで延びています。

20171125_111054.jpg
 アングルを変えて正面からも見てみます。ワイヤー巻き取り機がかなりでかいです。

20171125_111148.jpg
 右側から見ると、ワイヤー用のトンネル奥が見渡せます。写真に見える赤い目盛りは、エレベーターの位置をアナログ表示で示すものです。「ラピュタ」で10歳の少年が違法操縦していたエレベーターも、これくらいだったでしょうか?

20171125_111528.jpg
 エレベーターの操作、行先はこのような信号の組み合わせで決められています。モールス信号みたいです。

「第1立坑」覗き込み
「鯛生金山」には、主に6本の立坑があり、深さは240~590mというどれもが途方もない規模です。そのうち、深さが510mの「第1立坑」を上から見下ろすことができます。

20171125_111424.jpg
 「第1立坑」です。深さは510mで、「東京スカイツリー」の450m展望台よりも大きいです。そのうち310m分は水没し、200m分を見下ろせます(勿論底はよく見えない)。
 ただ、黄色線で示す説明文が少し謎でした(言いたいことはわかりますが…)。

20171125_111407.jpg
 現役当時の様子です。鉱山エレベーターなので、かなり狭く簡易です。当時は服装規定も緩かったみたいです。むしろ、裸や薄着の方が落盤を察知しやすく安全とも言えるそうです(落盤前の上からの砂、小石パラパラがわかりやすいため)。
 あと、「鯛生金山」の立坑掘り技術は、他の鉱山関係者が尊敬するほど高いものだったそうです。

20171125_112521.jpg
 エレベーターのワイヤーが真上から垂れ下がっています。このワイヤーが、巻き上げ機に繋がっています。

DSCN2723.jpg
 立坑内部を見下ろします。金網安全柵の隙間にカメラのレンズを合わせて撮影しました。立坑を照らすライトが非常に明るいものでしたが、それでも底がよく見えないです。下310mは水没しているため、200m先に水面がありますが、それでも見えづらいです。
 遥か彼方に、水面で反射している?灯りが見えます。たぶんそれが200m下の水面です。

DSCN2724.jpg
 立坑内部を少し拡大します。反射?灯りが見えてきました。

DSCN2725.jpg
 最大に拡大すると、輪郭がかなりわかってきます。蛍光灯のような反射光ですが、あんな深いところに電灯を設置するとは考えにくいため、これが光の反射する水面でしょう。このさらに310m下まで立坑は続きます。

「鯛生金山」 その1 坑道の様子

 「大分県中津江村」にある「鯛生金山」へ行ってきました。

「鯛生金山」
場所:「大分県中津江村」(WC「カメルーン」代表のキャンプ地)
稼働時期:明治31年(1897年)~昭和47年(1972年)
鉱床:浅熱水性鉱床
坑道総延長:約110㎞
坑道最深部:地下約500m(海抜0m)
・鉱脈は結構高角度
・採れた金は全部で40t(1200億円)、銀は160t
・全盛期は採掘ペースが「佐渡金山」よりも多かった
・現在は800mが観光可能で、深さ510m(※310mは水没)の立坑を覗き見ることができる


DSCN2699_20171223113124b6d.jpg
 観光坑道の入り口の「鯛生坑口」です。この坑道は通洞、所謂鉱山のメインルートで山を隔てた「福岡県矢部村」の「矢部坑口」までつながっています。全長は2614mで、かつてはトロッコ列車が通り、各採掘場所から立坑を介して作業員や鉱石がこの坑道に集まりました。

DSCN2706.jpg
 観光用坑道の見取り図です。全長は約800mで、鉱山全体の130分の1ほどです。下側の白い道(地図上途中で途切れているが)が通洞です。

坑内
20171125_110152.jpg
 坑道の交差点です。右下~左側の坑道が通洞です。天井には、崩落を防止するためにロックボルトが挿入されています。

20171125_110621.jpg
 使用されているロックボルトです。この製品は、トンネル王国の「ノルウェー」で使用されている最新型だそうです。どんな仕組みなのでしょうか?

20171125_110724.jpg
 鉱山現役で使われていたジープです。暗闇にあるため、「ターミネーター」の冒頭シーンみたいです。

20171125_112711.jpg
 鉱石運搬トロッコです。鉱山で使用される鉄道車両は、架線設置を端折るため、火災防止のためバッテリー駆動が主流です。

20171125_112646.jpg
 「明延鉱山」でも見ましたが、個々の鉱山の柱もちゃんと逆さ柱になっています。逆さにすることで、木が根元から水を吸い上げて木内に水が滞留することを防ぎ、柱の寿命を延ばしているのです。

20171125_113722.jpg
 手押し式のトロッコ車両です。この洞は、新たな鉱脈を探すための試験洞です。

20171125_113745.jpg
 足元に、トロッコ専用の転車台がありました。回転させられるのは1両分のかなりミニサイズのものです。

20171125_115443.jpg
 江戸時代の採掘風景です(「鯛生金山」は江戸時代に創業していませんが、記録に無い採掘はあった説があります)。もちろん手掘りのため相当な労働になったでしょう。女性の方も石を集めて運ぶという重労働を行っていました。

20171125_114654.jpg
 昭和時代の採掘風景です。エアードリルで天井の鉱脈を掘削していますが、頭上からの粉塵をまともに浴びる作業にも関わらず、マスクも眼鏡もせずへらへらしている、不真面目作業を見本とした展示物です。

20171125_114534.jpg
 シュリンケージの場所です。ここは、鉱脈に沿って採掘がおこなわれた後で、鉱脈部分が掘りつくされて大空間になっています。

20171125_115528.jpg
 江戸時代の測量風景です。こんな真っ暗な坑内で、行灯や蝋燭の灯りのみでアナログ機械を使い測量や記録を正確にしていく、昔の人間の野生の感力がすごいです。

20171125_120005.jpg
 掘削機械のドリルジャンボです。先端から2本の掘削機がアーム状に伸びています。現在のトンネル掘削にもよく使われます。

20171125_115929.jpg
 鉱石や人員を長距離輸送するルートでは、架線を設置して電車を走らせています。

20171125_115901.jpg
 アリマックレイズクライマーです。斜め上に伸びる孔に沿って掘削するために使われます。

20171125_112917.jpg
 穿孔用のビットです。結構でかいです。

20171125_113535.jpg
 ダイナマイトの部品が展示してありました。決して配線を間違えないように、線や部品は種類によって明確に色分けされています。

20171125_112805.jpg
 坑道の一部は天然の酒造庫として使われています。利用者が利用料を払って酒を保存しているそうです。

20171125_115755.jpg
 「鯛生金山」の象徴である金の鯛です。展示してあるのはレプリカです。本物は以前盗まれ1体は戻ってきましたが(もう1体は不明)、保安のために厳重に隠してあります。

20171125_115153.jpg
 通洞の奥を撮影。この2kmほど先が「矢部坑口」です。

「雲仙岳」 その5 江戸時代の「眉山」大崩壊について

 今回紹介するのは、「雲仙火山」の一つであり、平成に噴火した「雲仙普賢岳」から少し離れた「眉山」です。

 「眉山」は、標高818mの溶岩円頂丘型の火山で、1792年に山体崩壊を発生させました。

「眉山」の山体崩壊(「島原大変肥後迷惑」)について

・1792年に「眉山」の一部が噴火か地震の影響(原因は今も不明)で大崩壊
・崩壊した土砂は3.4億m3(1km×1km×340mの直方体分)
・「日本」三大崩れのうち、「大谷崩れ」、「稗田山崩れ」を凌駕し、「鳶山崩れ」に次ぐ規模
・この崩壊で海岸線が870mも沖合へ進む
・大量の土砂が「有明海」に流れ込み、最大遡上高20m以上の大津波が発生(57mの記録も)
・津波は「肥後」へ達し、反射波が「島原」も襲い、死者15000人以上の甚大な被害をこうむる
・崩壊土砂により海上に多数の流れ山(九十九島)が形成される


 この山体崩壊は、「日本」有史の中で、もっとも被害の大きい火山災害となりました。そしてその痕跡は今もくっきりと残っています。

空中写真より
1_2017121000380081b.jpg

3.png
(Googleマップ(一部加筆)より)
 「眉山」の海側(右側)の斜面が大きくえぐれているのがわかります。本来は丸い丘山ですが、崩壊箇所が急峻なすり鉢地形となっています。崩壊した先の海には、小島がぽつぽつ見えますが、これは山体崩壊土砂からできた流れ山地形です。

立体模型より
DSCN2687_20171210003803e5e.jpg
 立体模型からも、山の崩壊跡、その麓の標高が多少上がっている地形、そして海底の土砂堆積具合、流れ山地形がよくわかります。海底地形も、崩壊先が盛り上がっています。

現地の様子
DSCN2543.jpg

DSCN2546.jpg
 現地でも、その崩壊跡が遠目からでもよくわかります。200年以上前の崩壊のため、麓は緑化が進んでいますが、急峻な滑落崖部分はまだ露頭が見えます。

DSCN2672.jpg
 側面からも、その地形がよくわかります。本来はなだらかな斜面ですが、崩壊部分は非常に険しくなっています。まるで砂丘の風上と風下の崩落部のようです。

崩壊土砂で生まれた流れ山地形
DSCN2541.jpg
 流れ山地形でできた島も、緑化が進みすっかり周囲の海に溶け込んでいます。

「雲仙普賢岳」の火砕流と「眉山」
Unzen_pyroclastic_and_lahar_deposits.jpg
(Wikipediaより )
 かつては山体崩壊で大きな被害を出した「眉山」ですが、「雲仙普賢岳」の噴火の際は「眉山」麓の「島原」市街地への火砕流直撃を結果的には防ぐ形となりました。無論、その反面で「水無川」流域に甚大な被害を出したわけでマシになったとはいえる状況ではありませんが。

 「雲仙岳」周囲は、江戸時代と現代に起きた災害を間近で知ることができるジオパークとして、今後も発信されていきます。

「雲仙岳」 その4 今後も続く土石流対策

 「雲仙普賢岳」の大噴火からもう20年以上たちますが、その災害の痕跡による爪痕は生々しく残り、その対策はまだ終わっていません。むしろ、今後ずっと続きます。なぜなら、山頂の溶岩ドームや山麓の火砕流堆積物がまだ不安定なまま海まで急に続く「水無川」沿いに溜まり、土石流を引き起こす危険があるためです。

 そこで、かつての火砕流・土石流発生地の「水無川」沿いには、土石流に対応した堤防や砂防堰堤の建設、橋の橋脚養生が行われています。

砂防事業の空中写真
4.png
(Google マップより)
 こちらは、かつて火砕流が流れ下った「水無川」の空中写真です。川の上流部(左側)には砂防堰堤が幾重にも設置され、下流部(右側)には、下流に向かって八の字状に堤防が配置されています。

 この堤防は、上流側にわざと隙間を空けることで、土石流が流れ下る衝撃を緩和させ、堤防の決壊を防ぐためにこの形に造られました。ちょうど、「武田信玄」の時代に「山梨県」の「釜無川」に造られた「信玄堤」と同じ構造です。

 黄色○で囲ってあるところが、「大野木場小学校跡」と「砂防みらい館」です。

「砂防みらい館」(「大野木場小学校跡」の隣)からの火砕流跡・砂防工事
DSCN2631.jpg
 この建屋屋上からは、かつての火砕流の跡地や砂防対策設備を見渡すことができます。かつて火砕流は、この堤防沿いまで押し寄せるように流れ下りました。

DSCN2638.jpg
 少し写真を拡大します。火砕流の跡の植生がまだ低いのがよくわかります。写真真ん中の斜面にはかつて集落や農地がありましたが、今でも跡形もなく更地になっています。川には、幾重にも砂防対策が施されています。

DSCN2640.jpg
 写真真ん中あたりが、「定点」と呼ばれる、大火砕流による人的被害が最も出た場所です。この場所で平成3年(1991年)6月3日、火砕流により、付近の警戒・マスコミ対策をしていて独断で避難が遅れた地元の消防団、警察官、タクシー運転手、作業中の地元住人、世界的に有名で火山の撮影・研究に命を懸けていた火山学者の「クラフト夫妻」と「ハリー・グリッケン」、火砕流を撮影していたマスコミ関係者43名が亡くなりました。

DSCN2635.jpg
 下流側に視点を移すと、土石流を食い止めるための巨大な砂防堰堤と堤防が見えます。非常に高く幅広です。

DSCN2641.jpg
 砂防対策工事では、土石流の危険があるため無人機会による施工が積極的に取り入れられています。

DSCN2652.jpg
 堤防下から堤防を見上げると、その高さがよくわかります。
 
DSCN2653.jpg
 下流を眺めると、この川の急勾配さがよくわかります。ここの標高は180mで海までの平均勾配は6%。高速道路インターチェンジの坂道とほぼ同じです。これだけ急では、土石流が発生した時のエネルギーが非常にすさまじくなるのがよくわかります。

砂防施設
DSCN2660.jpg
 砂防堰堤を下流から眺めます。堰堤自体が、高いだけでなく非常に幅広いです。広い面で土石流のエネルギーを分散させるように、相当の流量を貯められるように造っているのでしょう。

DSCN2659.jpg
 堰堤だけでなく、土石流の巨石や流木などだけを受け止める柵上の堰もあります。

橋脚を最小限にする

 「水無川」にかかる橋にも、土石流対策がされています。橋を土石流から守るには、橋自体が土石流に接触するのを最小限に抑える必要があります。そこで、橋脚の数を減らす、橋の高さを上げる、橋脚を養生する、といった対策が取られています。

DSCN2676_20171206214301456.jpg
 この橋は、かなり高く造られています。堤防よりも一段高い位置からさらにアーチにより高度を稼いでいます。橋が土石流に接触しないように、アーチ形にすることで河川内に土石流と接触する橋脚を造らないためです。

DSCN2677_20171206214303fbb.jpg
 こちらの橋は、トラスを用いて河川内に橋脚を極力置かないようにしています。高さは上流の橋より若干低いですが、これは下流域の八の字型堤防の配置により、土石流の高さが抑えられると判断したからでしょうか?うち一つの橋は「島原鉄道線」(※廃止区間)のもののため、水平にするしかないですが。

土石流対策を施した橋脚
DSCN2662.jpg

DSCN2671.jpg
 河川の幅などの関係でどうしても橋脚を設置する場合でも養生を徹底しています。橋脚の上流側をコンクリートアーチで囲い、土石流の損傷を防ごうとしています。

 大火砕流・土石流が発生した当時は、火砕流の恐ろしさは、専門家以外にはほとんど知れ渡っていませんでした。それ故に人的被害がここまで出たともいえます。これは、「東北地方太平洋沖地震」の津波で現在の「日本人」が津波の脅威をガチで知ったのと同じでしょう。この噴火で甚大な被害を受けた教訓として、「日本」の、特に「雲仙岳」周囲の火山との適切な共存措置が考えられていっています。

「雲仙岳」 その3 「土石流被災家屋保存公園」(「道の駅 みずなし本陣」)

 「雲仙普賢岳」噴火による大火砕流被害は、火砕流そのもので終わりませんでした。
火砕流本体として山麓に数cm~数十cm(谷底は数m)堆積した火砕流堆積物は、梅雨時の雨により土石流として下流へ雪崩下り、麓の街並みを2mほどの厚さで埋め尽くしました。

 博物館にその映像が流されていましたが、その速度は時速50~60㎞/h。その姿は巨石が混じった津波そのものです。
 幸いにも非難が完了していたため、この土石流による死者は出ていませんが、麓の集落や農地・地元の人の生活は壊滅しました。

1_20171201213628627.jpg
 土石流は主に黄色部分に押し寄せました。黄色○で示す「道の駅 みずなし本陣」は、土石流被害地の真っただ中にあり、構内には土石流被害を受けた家屋11棟が当時のままの形で保存されています。

DSCN2577.jpg
 こちらが構内の説明です。

DSCN2590.jpg
 保存公園内から「雲仙岳」を眺めます。手前の電柱や奥の家屋が実際に被害にあった建造物です。

DSCN2578.jpg

DSCN2584.jpg
 被災家屋です。土石流は家屋の2階にまで押し寄せています。奥の建屋は、被災後に新たに建造された道の駅です。被災後に建造された建屋は、土石流の上に一段高く造られています。

DSCN2589.jpg
 屋根下まで完全に埋まった家屋もあります。

DSCN2601.jpg
 大き目の2階建て家屋も、土石流の凄まじい水土圧で完全に歪んでいます。

DSCN2599.jpg
 土石流で埋もれた家屋の隣には、やせた土地に強い松が生育し始めています。

DSCN2600.jpg
 奥の建屋は、被災家屋を屋内展示するための施設です。こちらも、土石流の上に建てられているため、被災家屋と段違いになっています。

DSCN2592.jpg

DSCN2595.jpg
 屋内には、2棟の被災家屋が展示されています。こちらでは、被災家屋の内部もできるよう整備されています。

DSCN2597.jpg
 家屋の一部は端を掘り起こして、内部を見れるようになっています。内部がすべて埋め尽くされているのがわかります。

DSCN2602.jpg
 道の駅構内には、実際に火砕流で被災した車両も展示されています。

 この火砕流や土石流の恐ろしさは、当時ニュース映像を見ていた地元の人以外の人も伝わっていたかと思います。しかし、このように実物で展示しているものを見て、長くも短くも26年前の災害のすさまじさを再認識させられます。これらの家屋に住んでいた人々も、相当な葛藤があったかと思いますが、後世へ伝えるために保存に同意されたことに感謝の念が絶えません。

「雲仙岳」 その2 「大野木場小学校」跡

 「大野木場小学校」は、「水無川」の河口から約3km上流、「雲仙岳平成新山」より5㎞ほど麓にある学校で、今から26年前の平成29年(1991年)9月15日の火砕流で発生した熱風により校舎が焼失しました。

 その前の6月3日の火砕流(43人が死亡)後で警戒区域に指定されて立ち入り禁止となったため、幸いにも学校関係者に被害は出ませんでした。

 しかし、この熱風により焼失した校舎は壊滅的被害を受け、学校機能は移転を余儀なくされました。校舎自体は火砕流本体ではなく、火砕流から伝わった熱、(つまり火砕流本体がストーブなら、熱風はストーブから伝わる熱気)という、火砕流で一番薄っぺらい部分を浴びただけですが、完全焼失しました。この校舎は火砕流のすさまじさを今でも伝える施設として一般公開されています。

1_20171201213628627.jpg
(Googleマップに加筆)
 「雲仙岳」から発生した火砕流(赤色)と、火砕流堆積物と雨により発生した土石流(黄色)の全体的な分布です。「雲仙岳」山頂~海岸線まですべてが火砕流と土石流で覆い尽くされ、この分布域の建物や農園などはすべて壊滅しました。
 「大野木場小学校」は火砕流から離れているものの被害を受けました。

DSCN2617.jpg
 現地にあった説明版です。最も多くの人的被害をだした6月3日の火砕流、校舎の被災状況を説明しています。

DSCN2611.jpg
 校舎後へ向かう道です。ここら辺も土手より右側の場所まで火砕流が押し寄せ、当時はその熱風で相当な被害を受けました。

「大野木場小学校」の校舎
DSCN2650.jpg
 こちらが火砕流の熱風で焼失した校舎です。現在は本館が展示されています。当時は体育館もありましたが、撤去されました。校舎はどこにでもある鉄筋コンクリート製で外観はしっかり残っていますが、建物内が熱風でめちゃくちゃになっています。

DSCN2625.jpg
 外からも、窓ガラスがほとんど吹き飛んでいるのがわかります。長年の風化で無くなったのもあるかもしれませんが、多くは当時の熱風の影響で破壊されました。被害は3階にまでまんべんなく及んでいます。

DSCN2636.jpg
 海方向を眺めます。海から3kmの場所ですが、海抜は180mもあります。平均勾配は6%で海岸線沿いとしてはかなり急で、火砕流や土石流の勢いが増した原因にもなったでしょう。

DSCN2649.jpg
 校舎内部は、熱風によりめちゃくちゃになっています。コンクリート以外の物はほぼ焼き尽くされ、床板が消失して下のコンクリート基礎が露出しています。

DSCN2626.jpg
 こちらの部屋は、水道蛇口やテレビつりさげ台がかろうじて残っている状態です。

DSCN2647.jpg
 こちらの部屋も、机などが完全にひしゃげています。これでも火砕流本体ではなくその縁からでた熱風という火砕流の薄い部分による被害です。

DSCN2623.jpg

DSCN2615.jpg
 工程の遊具などもかなりの被害を受けています。

DSCN2620.jpg
 熱風から蘇ったイチョウの木です。当時の熱風にさらされ一時は枯死の危険も出ましたが、現在では元気に茂っています。

「大野木場小学校」は現在も別の場所に移転され、ここの隣には火砕流と土石流を後世に伝える「大野木場砂防みらい館」があります。

「雲仙岳」 その1 現在の景色

「雲仙普賢岳」の噴火
主に平成2年(1990年)~平成7年(1995年)に大噴火を起こし、1万回以上発生した火砕流により死者行方不明者44人、その後の土石流により下流へ甚大な被害を出し、「日本」のみならず世界中に(小規模部類だが)火砕流の脅威を知らしめた火山。
この噴火により、「雲仙岳」最高峰の「普賢岳」を123m上回る「平成新山」が流紋岩質の溶岩ドームにより形成された。
平成21年(2009年)に「日本」初のジオパークに指定される。


 「雲仙岳」麓に行ってきたので報告します。現地では、火砕流や土石流の爪痕が今でも見られ、被災施設を当時のまま保存している施設もあります。現在これらを見学することができますが、そこはわずか22~27年前に甚大な被害をもたらした記憶の生々しい場所のため、普通の観光地気分で行けない場所であります。

道の駅「みずなし本陣」より
DSCN2569.jpg
 この道の駅からは、「雲仙岳」が一望できます。右が「江戸時代」に大規模崩落を起こした「眉山」、左が「雲仙岳」です。

DSCN2573.jpg
 「雲仙岳」を正面から眺めます。植生が薄い場所は、全てあの大火砕流の被害を受けた面です。噴火前は周囲と同じく森が広がっていましたが、火砕流により一面が焼け野原になりました。現在では、火砕堆積物などのやせた土壌に強い植物を中心に、緑が回復しつつあります。

道の駅「みずなし本陣」北側より
DSCN2558.jpg
 この地域は、大火砕流後に豪雨とともに発生した土石流により壊滅した場所です。土石流は現地の博物館や、動画サイトなどで見ることができますが、巨石を含む完全なる津波でこの一帯は2m以上の土砂で埋まりました。その証拠に、この一帯の建物は新しいです。

「平成新山」山頂の溶岩ドーム
DSCN2562.jpg
 山頂のごつごつ地形は、平成噴火により生じた溶岩ドームです。現在も山頂付近は火山活動が微量に続き、立ち入り禁止になっています。山頂はかなり険しく不安定なため、登ること自体がかなり危険です。

火砕流跡の一部
DSCN2571.jpg
 写真に写る地域は、火砕流で最も人的被害を受けた一帯です。かつては集落が広がっていましたが、今も復旧していません。

土石流が流れた「水無川」
DSCN2563.jpg
 火砕流は流れて終わりではありません。地表に堆積した後は降雨により大量の水を含み土石流=山津波となり麓へ流れ下ります。ニュース映像でもよく報じられた川がこちらになります。川としては、海までかなり急勾配で、土石流の勢いが想像つきます。

「雲仙岳災害記念館」
DSCN2690_20171129210906c52.jpg
 麓には、「雲仙普賢岳」噴火を大きく展示した火山博物館があります。そこで、あの大噴火を地質学、科学、社会学、火砕流被害の実物、語り部の証言などあらゆる面から情報発信をしています。屋外には、当時発生した溶岩が展示されています。

DSCN2680_201711292109037cb.jpg
 麓には、「雲仙普賢岳」噴火を大きく展示した火山博物館があります。そこで、あの大噴火を地質学、科学、社会学、火砕流被害の実物、語り部の証言などあらゆる面から情報発信をしています。屋外には、当時発生した溶岩が展示されています。

DSCN2681.jpg
 噴火前(左)と噴火後(右)の立体模型が展示されています。形の違いがはっきり判ります。「雲仙岳」手前の部分が溶岩ドームにより盛り上がりました。

「島原鉄道線」
DSCN2536.jpg
 「雲仙岳」のある「島原地域」は、鉄道では「島原鉄道線」で行けます。この鉄道は、「日本」で運転された最初の車両の「1号機関車」が「日本」で初めて走行した路線です。

 次回からは、被災跡や現地の様子を紹介していきます。

「平尾台」 その4 「千仏鍾乳洞」

「千仏鍾乳洞」:サンダルを履いて地下水路を直に歩ける

 「千仏鍾乳洞」は、「平尾台」を代表する鍾乳洞で、サンダルを履いて水路を直に歩けるという、真夏日では´最初のうちは´非常に楽しい鍾乳洞です。

見取り図
20170827_140140 - コピー (3)
 「千仏鍾乳洞」は、長さが1200mを超える「平尾台」でも有数の長さの鍾乳洞で、昭和10年(1935年)に国の天然記念物化される由緒のある鍾乳洞です。入口から480mは普通の徒歩、そこから420m奥は水路をサンダルで歩け、さらに300m奥は灯りがなく懐中電灯を持って見れるようになっています(残念ながら懐中電灯不所持で奥まで行けませんでした)。
 洞窟全体が現役の地下河川で河川の下流から上流へ登っていくコースです。つまり入口は地下河川の最下流に位置し、そこへ行くには「平尾台」の台地から100m近く下るという、帰りが嫌になる位置にあります。この地下河川の形態は、「秋芳洞」のミニバージョンともいえるでしょう。

DSCN2016.jpg
 絵図です。絵からも地下河川が全体にわたっているのがわかります。

入口~普通の徒歩区間
DSCN2022.jpg
 入口は地下河川最下流のため、水が流出しています。大雨の時はどうなるのでしょうか?

20170827_125247.jpg
 入口は風化した?鍾乳石が垂れ下がりかなり低くなっています。発見されたときは、植生に覆われて見えにくかったかもしれません。

20170827_115935.jpg

20170827_120102.jpg
 普通の徒歩区間は、おおよそ平坦で歩きやすいです。なだらかな地下河川沿いに進んでいる証拠でもあります。天井は「目白鍾乳洞」と比べて凹凸が激しいです。「千仏鍾乳洞」自体が断層を介して通っているので、地質の変化も絡んでいるかもしれません。

20170827_120416.jpg

20170827_120609.jpg
 場所によっては天井が非常に閉塞しています。ここもかつての地下河川の跡で、水面を示すノッチがよくわかります。閉塞している場所は、その上に流れていた水が下の空洞へ崩れ流れた跡、もしくは硬くて浸食されにくかった痕跡でしょうか?

20170827_120705.jpg
 途中で開けている場所もあります。天井の高さは10mを超えるところもあり、小高い所へ登れもします。

20170827_120709.jpg
 この辺りも壁に引っ付くくらいの鍾乳石が長年かけて発達しています。

20170827_120758.jpg
 地下河川跡を通っているため、とにかく水路の痕跡が非常によく残っています。最初に散策したら方向感覚が訳分からなくなりそうです。

20170827_120941.jpg
 人が長蛇の列をなしています。ここから先がサンダルで水路を歩ける区間で、その順番待ちです。水路を直接歩くと足場の悪さ、涼みたい・水で涼みすぎて途中の岸で休憩したい欲望によりペースが遅くなり渋滞するのです。

水路歩き区間
20170827_121549.jpg
 水路の始まりはこんな感じです。ここら辺から休日は大渋滞です。

20170827_121655.jpg
 こんなコースが延々と420mも続きます。水温は13℃と結構低く、プールの消毒槽並みの冷たさです。入った瞬間は大喜びですが、だんだん冷たさに飽きてきて途中の岸に早く上がりたい欲求にかられます。水に浸っている人は、だんだんと「早く進めよ…」と思ってきます。

20170827_122217.jpg
 水路の底は、石灰岩の平滑部が多く、水流や人の踏み込みできれいに磨かれています。ときたま鍾乳石が目の前に立ちはだかります。

20170827_122022.jpg
 こんな風に円形になったところもあります。こういうところは狭くても通りやすいですが、岸がないので渋滞したらしんどいです。

20170827_123402.jpg
 石灰岩が非常にきれいに磨かれています。基本的に、水が多く流れる鍾乳洞はきれいです。

20170827_124158.jpg
 自分も含めて、岸で小休止を満喫している人は多いです。まあ、後ろがつっかえてひんしゅくを買わない程度にですが。あと、スマホで写真撮ってた人も結構いましたが、すぐ近くは水路なので落とす恐れはあります。ストラップを首から下げるのがいいでしょう。

20170827_122244.jpg

20170827_122229.jpg
 人がいない状態では、こんなに神秘的です。

20170827_124053.jpg
 石灰岩の間に黒色泥岩?が狭在しています。この辺りには断層が走っているため、その影響で混在したのでしょうか。この地下河川は断層を横切る形で流れていますが、断層の影響で生じるであろう亀裂や弱部に水が流出せずにこの流れをきれいに維持できています。

「平尾台」 その3 「目白鍾乳洞」

「目白鍾乳洞」:世界的にもかなり貴重な長さ20mの水平天井がある
 「目白鍾乳洞」は、昭和43年(1967年)という僅か50年前に「東京学習院大学探検隊」によって発見された、全長が2km以上(現在確認時点)の大規模な鍾乳洞です。
 発見した「東京学習院大学探検隊」のある「目白」にちなんで「目白鍾乳洞」と命名されました。

20170827_140140 - コピー (2)
 「目白鍾乳洞」の見取り図です。一般的に立ち入れるのが赤線部分で、その左上が入り口です。公開されているのわごく一部で、北側に向けて洞が延々と延びているのがわかります。これらの未公開部は、探検ツアーで入れるっぽいです。

入口~洞内
DSCN2004.jpg
 入口の駐車場には、世界一大きいタイヤショベルのタイヤが展示されています。直径は3.7mもあります。近くの鉱山(石灰岩)で使っていたのでしょうか?

20170827_110937.jpg
 内部に入った直後に大空間が広がっています。この空間から、観光用の穴と、1km以上にわたり奥深く続く穴が分かれています。

20170827_111047.jpg
 「目白鍾乳洞」の壁面は結構白いですが、「目白鍾乳洞」の名前の語源ではありません。

20170827_111156.jpg
 穴の分岐点です。この奥は未公開部で昭和44年(1969年)に発見されました。名前は「北本洞」、「白蛇支洞」で、全長は1km、この先71mも延々と下り続け中には大空間や地底湖、落差20mの滝などがあります。

鍾乳石
20170827_111340.jpg
 「目白鍾乳洞」は壁面が白いため、鍾乳石も美しいです。観光地化された鍾乳洞は、空気、湿度、気温、照明による光量の変化で苔むしたり外気の汚れが付着して変に色づいてしまいますが、ここではかなりきれいな状態で保たれています。
 この釣鐘型は、鍾乳石では非常に太い部類にはいります。相当な年月で形成されたでしょう。

20170827_111658.jpg
 鍾乳石が横方向に広がっています。水の滴る範囲が一定方向であり続けないとできない形状です。

20170827_111237.jpg

20170827_111359.jpg
 壁面が白いので、鍾乳石もかなり美しくなっています。この辺りから、天井がまっ平になってきました。

水平天井
 「日本」でここしかないといわれる、20mに渡り続く水平天井です。人工物ではないのか?と感じるほどの見事なまっ平ぶりです。鍾乳洞上にある巨大な一枚岩が洞形成時に露出したそうです。
 
20170827_111749.jpg

20170827_111447.jpg

20170827_112206.jpg
 かつては水路だった痕跡が明確に残っています。「牡鹿鍾乳洞」と同じく、天井近くに水路跡を示すノッチがよく見えます。上の水平天井は、うまい具合に浸食を受けず、鍾乳洞形成後も崩落せずに残って今の状態になったと思われます。

20170827_111726.jpg

20170827_111334.jpg
 全体的に眺めてみると、その平っぷりがよくわかります。天井より下の壁面と明らかに雰囲気が違います。

「平尾台」 その2 「牡鹿鍾乳洞」

「牡鹿鍾乳洞」:「日本」で珍しい垂直鍾乳洞(入口が30mの竪穴)
 今回は、「牡鹿鍾乳洞」を紹介します。「牡鹿鍾乳洞」は、今から55年前という割と最近に発見された「日本」に2つしかないらしい垂直型の鍾乳洞です。この垂直型とは、おそらく入口がかなりの落差の竪穴のことを指しています。その竪穴は約30mと、観光用鍾乳洞としては、かなりの規模です。

垂直な入口

DSCN1987_20171123204651ff3.jpg
 「牡鹿鍾乳洞」の解説と見取り図です。かなりの竪穴ということで、動物の落とし穴にもなり、古代動物の化石がかなり見つかっています。

DSCN1989.jpg
 「牡鹿鍾乳洞」の入り口です。入口自体がほぼ垂直で、設置された階段をつづら折れに降りていきます。

20170827_102025.jpg
 1つ前の写真奥の階段から、底を見下ろします。とんでもない高さです。階段には踊り場が5か所設けられています。

20170827_104020.jpg
 底から地上を見上げます。左の階段の最初の踊り場高さは、5mほどです。こんな急で落差のある観光鍾乳洞は、見たことがありません。

20170827_102208.jpg
 階段を下りた先からは、少し横穴が上下しつつ続きます。写真奥から動物の骨や化石が多数発見されました。

洞内
 「牡鹿鍾乳洞」は、水量が少なさそうな鍾乳洞で、壁面自体が鍾乳石形成後に変化や崩落をしたかのような印象でした。「平尾台」のカルスト地形図を見たら、地下水系の最上流部にあたり、より大規模な「不動洞」などのほかの鍾乳洞へ地下水が流れていく関係です。

20170827_102808.jpg
 かつては、表示板の所まで地下水で満たされていました。ちょうど庇が出ている部分でノッチといいます。
 例えれば、コーンスープの液面に位置するところでスープの塊がカップの淵にこびりつくようなものです。

20170827_102845.jpg
 岩質はわかりませんが、上と下でなんか石が違うかもしれません。表面の形状が変わっています。勝手な想像ですが、下半分が滑らかな石灰岩、上が土砂交じりとかの岩石でしょうか?もしくは、地下水流の跡とか?

20170827_102357.jpg
 こういう縦長の断面は、縦長の亀裂をもとに広がったのでしょうか?

DSCN1995.jpg

20170827_102705.jpg
 だいぶ表面が着色されていますが、石灰岩っぽさがまだ見えます。

20170827_102736.jpg
 洞内には、特徴的な模様が描かれています。ただし、左下の顔っぽいほうが気になりました。

20170827_104133.jpg
 葡萄状鍾乳石は、確か結構珍しい鍾乳石だったような気がします。

20170827_102918.jpg
 洞内奥に湧き水がありました。恐らく「牡鹿鍾乳洞」、さらにはこの地下水系でほぼ最上流に位置する湧水です。ここから数㎞に渡って「平尾台」地下を流れていきます。大雨の日はかなり水が湧きそうです。

「平尾台」 その1 外の風景

 「平尾台」は、あの「秋吉台」、「四国カルスト」と並ぶ「日本」三大カルストの一つで、「福岡県」北東部に位置する「九州」最大規模かつ有名なカルスト観光地帯です。
 カルストといえば「秋吉台」が非常に有名ですが、「平尾台」も規模や学術の面からは非常に面白い地質地形帯です。

 カルスト地帯の面積は約12km2で、大部分が結晶質石灰岩、一部が花崗閃緑岩からなります。「平尾台」には、大小200近くの鍾乳洞がみつかり、そのうち「千仏鍾乳洞」、「目白鍾乳洞」、「牡鹿鍾乳洞」の3洞窟が一般見学、その他「青龍窟」などが探検ツアーで見学できます。

 そして、観光用のこの3洞窟は、他ではなかなか見られない以下の特徴があります。

「牡鹿鍾乳洞」:「日本」で珍しい垂直鍾乳洞(入口が30mの竪穴)

「目白鍾乳洞」:世界的にもかなり貴重な長さ20mの水平天井がある

「千仏鍾乳洞」:サンダルを履いて地下水路を直に歩ける


 「平尾台」関連の記事では、以上の3洞窟を紹介します。

その前に、「平尾台」と周囲の景色を説明します。

「日田彦山線」の「石原町駅」
「日田彦山線」は、今年の「平成29年7月九州北部豪雨」で南半分の区間が甚大な被害を受けた路線です。もとは、「筑豊炭田」や「平尾台」付近の石灰石鉱山から算出される石炭・鉱石を運搬する貨物路線として、偉大なる「筑豊炭田」鉄道網の一つで大変にぎわっていました。

 炭鉱が閉山されていき、この路線も周囲の路線にもれずローカル線となっていますが、線路沿いの駅設備は、当時の繁栄を今に伝えています。
DSCN2035.jpg
 「石原町駅」は、「平尾台」の最寄り駅で、そこからコミュニティータクシー(結構安い)で行き来ができます。近くには「平尾台」の石灰岩を採掘している鉱山の露天掘りがあります(写真左上)。秩父の石灰鉱山のように、遠目からもその姿が見えます。

DSCN2029.jpg
 「石原町駅」構内です。現在は2両前後の編成列車が走っていますが、それに比較して非常に長大な発着線が、跡地を含めて何本も見えます。かつては、石灰石や石炭を大量搭載した貨物列車が頻繁に走っていました。この雄大な設備は、「筑豊炭田」の多くの駅に見られます。

「北九州モノレール」のシーサスポイント
DSCN2039.jpg
 普段、普通鉄道でよく見る主要駅の両渡り交差です。ござ式モノレールの形では、かなり大掛かりになります。

「水戸岡」作品の一つの「817系」
DSCN1984.jpg
 あの「水戸岡鋭治」の作品のひとつで、平成13年(2001年)にグッドデザイン賞を受賞した車両です。「JR九州」らしく色調がとても豊かで、扉近くのつり革配置を円陣状にしています。

「平尾台」のカルスト地形(外)
DSCN1998.jpg
 「平尾台」では山焼きが行われるため、景色の見通しは非常によく、カルスト地形の特徴である石灰岩の露岩がよく見えます。

DSCN2023.jpg

DSCN2013.jpg
 石灰岩の露岩です。「平尾台」の石灰岩露岩の特徴は、丸っこいところです。カルストの石灰岩はギザギザすることが多いですが、個々の石灰岩は熱編成を受けた結晶質で硬いため、均等に侵食されて丸っこくなります。

ドリーネ地形
 カルスト地形の代表各のドリーネもそこらかしこで見られます。ドリーネはいわゆる陥没地形で、地下で浸食融解して空洞化(鍾乳洞化)した影響で、地表が陥没してできます。言い換えれば落とし穴で、散策はやめた方がいいです。この地形から地表水が流入し、地下の洞窟に流れていきます。

20170827_105339.jpg

DSCN2011.jpg
 大きめなドリーネは、木の位置が妙に低いこと、くぼんでいるっぽい雰囲気から大体わかります。

DSCN2008.jpg
 遠目からでも、凹みがいくつも見えます。

DSCN2010.jpg
 これなどはかなり大規模な形態です。

次回から、洞窟紹介をしていきます。

「阿蘇山」 その2 山頂火口の近く(※間近は現在立ち入り禁止)

 そのままバスで山頂火口近くまで行けました。本来なら噴火口のすぐ近くまで行けるのですが、1~2年前の噴火レベル3(入山規制)の火山活動が生じて現在でも遠目でしか見れません。山頂からは、現在でも噴煙が立ち上っています。

山頂の様子
20170723_123854.jpg
3kmほど離れた場所から撮影。山頂は、周囲が結構な平坦高原です。中央が現在も活動している火口で、うっすらと噴煙が見えます。

DSCN1951.jpg
 少し拡大すると、噴煙がはっきり見えます。

20170723_114720.jpg
 火口より2kmくらいの場所です。噴煙がよりはっきり見えます。

火口から1km地点
DSCN1930.jpg
 現在一般人が行ける、ギリギリの場所です。ここは、山頂火口へ繋がるロープウェイの駅です。現在ロープウェイは運休中で、ワイヤーやゴンドラは取り外されています。

DSCN1927.jpg
 この辺の山肌も「熊本地震」で崩落しています。

DSCN1928.jpg
 山頂につながる道路は、柵で封鎖されています。

DSCN1926.jpg
 ここには、交番があります。今は人がまばらですが、本来ならめちゃくちゃ人の多い観光地なので設けられたのでしょう。今も、侵入者取り締まりや噴火の監視などをしているようです。

DSCN1929.jpg
 建屋より山頂を撮影。写真右のロープウェイのワイヤーが取り外されているのがわかります。左下の社は、近年の噴火(もしくは地震?)で損傷を受けています。

DSCN1931.jpg
 現在も駐車場に真新しい火山灰が残っています。1~2年前の噴火ではこの辺りも数十cmも灰が積もり、建屋表面がかなり損傷を受けたようです。

20170723_112905.jpg
 観光客の出身地を張っている地図ですがl、結構色んなところからきています。

「阿蘇山」 その1 周辺の景色

 半日帰りで「阿蘇山」へ行ってきました。「阿蘇山」は現在、「熊本地震」の影響で鉄道や道路をはじめとするライフラインが破壊され、周囲の斜面が今でも崩落したままです。したがって、「熊本」方面からは代行バスで崩壊した「阿蘇大橋」を迂回するために一度外輪山へのぼりつめてカルデラ内へ入っていきます。

「阿蘇駅」

DSCN1965_201711051811597d4.jpg
 「阿蘇駅」付近もまだ鉄道の復旧が終わっていません。したがって、代行バスでここまで着き、それから「阿蘇山」山頂へのバスに乗り換えます。

DSCN1963.jpg
 「阿蘇駅」前より「阿蘇山」を眺めます。遠目からでも、「熊本地震」の影響からか、土砂崩れの跡が見られます。

「阿蘇山」山腹
20170723_104642.jpg

20170723_104330.jpg
 「阿蘇山」山腹は、多くが牧場となっています。

「米塚」
DSCN1959.jpg
 山腹には側火山の「米塚」があります。地質学的には、噴出したスコリアが安息角ギリギリの傾斜で堆積したスコリア丘です。高さは約80mあり、僅か3300年前に形成された新しい火山です。

DSCN1948.jpg
 噴出したスコリアと思われる石です。

「熊本地震」の爪痕
DSCN1962_20171105181639e50.jpg
 「阿蘇山」の山腹や外輪山などは、いたるところが崩落しています。山腹からは、外輪山の崩落がよく見えます。

20170723_123659.jpg
 展望台駐車場も、地震により崩落しています。ライフラインの復旧を優先させているため、この修復は当分先かもしれません。右奥の崩落部は、「阿蘇大橋」です。

20170723_123759.jpg
 少し拡大します。「阿蘇大橋」の崩落部分が非常に大規模なのが遠目からもわかります。谷間は「立野」の渓谷です。この奥が「熊本平野」です。

DSCN1949_20171105181803661.jpg
 「阿蘇山」山頂のひとつの「枡島岳」です。「阿蘇山」では山焼きが行われるため、一面が草原で非常に見晴らしがいいです。所々が地震の影響で?地面がはがれています。

20170723_104410.jpg

DSCN1955.jpg
 「阿蘇山」山頂のひとつの「烏帽子岳」です。こちらも崩落跡が生々しいです。

「桜島」 その5 「桜島」東側

  今回は、「大正大噴火」を一番実感できる個所を紹介します。

無題
 今回紹介するのは、図の右下の水色○部分で、「昭和溶岩」と「埋没鳥居・門柱」です。

「昭和溶岩」
20170626_170755.jpg
 「桜島」東側は、71年前に流出した「昭和溶岩」がよく見える場所です。

20170626_170748.jpg
 「昭和溶岩」が流れたのは昭和21年(1946年)と、戦後の翌年でした。戦後復興間もないときに「桜島」は再び溶岩の猛威にさらされました。「昭和溶岩」は「大正溶岩」の1/10ほどですが、集落に押し寄せるからには被害は軽減しません。この溶岩も海岸線を1km以上前進させました。

20170626_170844.jpg

20170626_170854.jpg
 「昭和溶岩」は71年物という非常に新しい溶岩で、「大正溶岩」よりも植生が発展途上です。ようやくやせた土地に強い松が生えつつある状態です。

20170626_170941.jpg
 最近の火山灰も結構積もっています。東側は偏西風により、西側よりも火山灰が積もりやすいです。

20170626_165911.jpg
 そして、「桜島」には噴石などから身を守るための避難設備が多数建てられています。

「大正大噴火」の埋設物
20170626_170048.jpg

20170626_170025.jpg
 「大正大噴火」の被害が一番よくわかる場所です。高さ3mあった鳥居は、大噴火の噴石や降灰により、たった1日で2m藻の噴出物堆積により埋まりました。掘り起こす話も出ましたが、後世に残すということで、当時のままの状態で保存されています。

20170626_170533.jpg

20170626_170539.jpg
 高さが2.5mあった門柱もほぼすべて埋まっています。説明がないと埋まっていることが全くわかりません。

「桜島」 その4 「大隅半島」との結合地点

 今回は、主に「桜島」と「九州本土」の「大隅半島」の結合部を紹介します。

 この結合部は、103年前の「大正大噴火」で噴出した大量の「大正溶岩」により、もともと完全な島だった「桜島」と「大隅半島」を隔てていた、幅300~400m、深さ60~70mの海峡が埋め立てられ完成しました。

無題
 今回見る場所は、下の黄色円です。左側の円が色んな時代の溶岩を見られる「有村溶岩展望所」右側の円が結合部です。

「有村溶岩展望所」
20170626_143753.jpg
 この展望所では、「昭和溶岩」、「大正溶岩」、それ以前の溶岩を一度に見れます。各時代の溶岩は、植生に違いが見られます。
 71年前に流れた「昭和溶岩」はやっと植生がまばらに生じ、103年前に流れた「大正溶岩」には松などの不毛地帯に強い植物が生育しはじめています。それらより古い溶岩には松以外にも様々な植生が認められます。

20170626_143848.jpg
 展望所は「大正溶岩」の真ん中で、海まで続いています。奥の陸地は「大隅半島」です。このあたりも溶岩により、海岸線が数百m沖合に延びています。

結合部
20170626_165037.jpg
 「大正噴火」は「桜島」が「大隅半島」と一つながりになるという、地質学的にも非常に珍しく貴重なイベントが起きました。上の写真は、当時の溶岩に埋まった瞬間の現地です。

20170626_164117.jpg
 「大隅半島」側からの「桜島」です。

真上より
 結合部の空中写真です(Google Mapに加筆)。下図には、「大正溶岩」と、「大正大噴火」前の海岸線を描いています。番号は、これからお見せする写真の撮影位置です。
 「大正溶岩」は103年物の非常に新しい溶岩のため、形成時の形がよく見えます。多少粘り気のある溶岩のため、流れた時のしわがまだよく見えます。海岸線は、ここ数年話題になっている「西之島」の海岸線と同じ形状をしています。

海岸線が「西之島」と似ている
西之島
 こちらは、形成中の「西之島」の空中写真です。溶岩流れたての海岸線は、このように流れが小刻みにフラクタル分裂をしています。これは流動的な溶岩が冷たい海水に入って急冷したためであり、他で例えるなら、雪の結晶の縁のギザギザ、もしくは油幕に洗剤を入れてギザギザと似ています。

結合部の地上写真
西側より
 便座上、Google Mapの写真をちょこまかと応用します。この写真の道路は、「大正溶岩」の縁と「大隅半島」の接触境になります。写真内の道路より左側は、「大正大噴火」前は全て海でした。

北側より
 北側から見た境です。水色線が、「大正大噴火前」の海岸線(推定)で、写真奥まで海峡が反対側まで続いていました。真ん中の峠が溶岩との境界です。「大正溶岩」がかなりの厚みをもって押し寄せたことがよくわかります。もう一度言いますが、溶岩で埋まる前は、幅300~400m、深さ60~70mの海峡でした。

20170626_164905.jpg
 写真②よりさらに奥です。ここまでくると、103年前までは海だったことが全くわかりません。

20170626_165125.jpg
 結合地点から北側を眺めます。この写真内の左側もかつてはすべて海でした。海岸線が500m~1kmは進撃しています。



「桜島」 その3 「湯之平展望所」

 今回は、一般人が「桜島」山頂火口に最も近づける、「湯之平展望所」へ行きました。「湯之平」展望所は、今でも活発な噴火が起きている山頂加工からわずか3km弱という、超至近距離にあります。これは、「富士山」の山頂から「宝永山」までの距離より短いです。

「桜島」の近年の溶岩分布

桜島
 観光案内図を元に、グーグルマップを利用して、過去4回分の溶岩流の分布を描いてみました。新しい溶岩にある「桜島」の輪郭加筆部分は、1つ前の噴火時代の海岸線です。
 これを見ると、左下の「大正溶岩」がいかに広大多量に流出し、海を埋めていったかがわかります。

桜島大正溶岩西
 「湯之平展望所」がある、「大正溶岩」西側の様子です。前回紹介した、「烏島」跡や「長渕剛」ライブ会場跡もこの溶岩にあたります。「湯之平展望所」は、「大正溶岩」の縁近くにあります。右側にある2つの噴火口のうち現在活動しているのは下側です。

「湯之平展望所」
DSCN1850.jpg
 「湯之平展望所」の説明です。

20170618_150434.jpg
 「湯之平展望所」からみた山頂です。「大正溶岩」は、写真右側から噴出しました。噴火から103年たった現在では、松などのやせた土地に強い植生に覆われています。山頂から半径2km圏内は、昭和噴火以降ほぼ人が立ち入れず(研究者や侵入者はいるかもですが)、今も火山灰に覆われた荒野となっています。そのため下流への土石流が懸念され展望所からさらに火口よりで砂防工事が実施されています(写真中央)。
 現在活動中の噴火口は山頂の右側で、しきりに火山灰を噴出するためその付近は地形がなだらかになっています。過去に活動していた山頂左側の噴火口は、浸食がすすんでいます。

20170618_150349.jpg
 浸食によりできた谷地形から、地層が見えます。

20170618_150607_201710011610061eb.jpg
 展望所から「鹿児島」市街地方面を眺めます。「大正溶岩」の分布を加筆してみました。

20170618_150921.jpg
 展望所のいたるところに新鮮な火山灰が積もっています。ここの辺も、頻繁に降灰があるようです。

DSCN1842.jpg
 「桜島」では、お墓などが降灰の影響を減らすために屋根で覆われています。

「桜島」 その2 「大正溶岩」西側

20170626_144111 - コピー - コピー
 今回は、僅か103年前の「大正大噴火」で流出した「大正溶岩」の西側を紹介します。
 「大正溶岩」は、上図の赤部分で「桜島」の西側と南東側に流出しています。

西側は
陸上5.91k㎡+海上2.43k㎡=合計8.34k㎡


南東側は
陸上5.25k㎥+海上2.19k㎡+海底7.97k㎡=合計15.41k㎡


全部で23.75k㎡と、現在の「桜島」の面積の1/3(※海底も含む)が溶岩で覆われました。

「大正溶岩」に埋まった「烏島」
DSCN1822.jpg
 写真の場所は、噴火前は´沖合500mにあった´元「烏島」です。かつては離れ小島ですが、「大正溶岩」によって埋め尽くされました。「大正溶岩」は、元の海岸線より2km近く沖合まで「鹿児島」市街地方面へ進みました。

DSCN1823_20170918182209bf9.jpg
 地図でいう、こげ茶色部分が「大正溶岩」です。離れ小島が溶岩に埋まるのは非常に珍しく、最近の事例では「西之島」がいい例です。

DSCN1827_20170918182213bc7.jpg

DSCN1825_2017091818221221b.jpg
 埋まった「烏島」の周りは完全なる溶岩の陸地です。高さは約20mあります。

「長渕剛」ライブ会場跡
DSCN1832.jpg
 今から13年前に「大正溶岩」の上で「長渕剛」のオールナイトコンサートが開かれ7万5千人もの人々が集まりました。その跡地に「桜島」の溶岩を削って作った「長渕剛」の像、「叫びの肖像」が造られました。この像は、「桜島」に新たにできた噴火口をイメージしているそうです。

DSCN1835.jpg
 こちらが当時の様子です。

DSCN1836_20170918182236ffc.jpg
 コンサートの跡地です。もともと採石場だったらしく、ライブを行うのにぴったりの大平原です。

溶岩なぎさ遊歩道
DSCN1873.jpg
 海岸付近は遊歩道が整備され、僅か103年物の溶岩を思う存分観察できます。「桜島」の溶岩はどちらかというと粘性の高い「アア」型で地形的に凹凸しています。

DSCN1870.jpg
 溶岩のかけらです。何度も言いますが、石としては非常に新しいものです。たぶん安山岩でしょう。

DSCN1861.jpg
 道路には、最近降ったであろう火山灰がまだ残っています。

20170618_162233.jpg

DSCN1878_201709181822568c7.jpg
 西側の海岸です。103年前まではここは沖合1~2kmの海でした。すぐ2~3km先は「鹿児島」市街地です(下写真のビル群)。
「ブラタモリ」でいつか「桜島」をやってほしいものです。

「桜島」 その1 渡航~ビジターセンター(「大正溶岩」西側)

 「桜島」は、世界でも珍しい´数十万都市のすぐ近くで日常的に噴火をする活火山´です。「鹿児島」市内から大正溶岩(103年前に流出)まで約2km、今も噴火をしている噴火口まで約8~10kmしか離れていません。
 しかも、今でも4500人ほどの人が「桜島」で生活をしています。

「鹿児島」では噴火レベル3(5段階中)が普通
20170603_181542.jpg
 「鹿児島」市内から見た日常的な光景です。「鹿児島」意外の都市部では、こんな噴火が起きたらかなりの大騒ぎになるでしょう。対する「鹿児島」では誰も騒がずいつもどおり過ごしています。地震で例えれば、「日本人」が震度4くらいでほとんど驚かないのと同じです。

無題
http://www.sakurajima.gr.jp/kinkyu/002055.html
 「桜島」の観光サイトもこのとおり。


20170626_144111 - コピー - コピー
 近年の「桜島」溶岩分布です。本記事では、赤丸で囲ってある部分に行きます。

「桜島フェリー」
・24時間営業で日中は15分間隔で車に乗ったままずっと乗船できる(15分)
20170618_175428.jpg
 「鹿児島」市街地から「桜島」へは「桜島フェリー」で15分かけていきます。上に書いてある通り、都市部の幹線鉄道並みにダイヤが過密で値段も人で160円とかなりお手軽に乗れるフェリーです。

20170618_175159.jpg
 「桜島フェリー」の航路からは「大正溶岩」がよく見えます。「大正溶岩」は、大正3年(1914年)の「大正大噴火」で流出した溶岩です。写真に見える陸地すべてが「大正溶岩」です。

「大正大噴火」のスペック
・「桜島」と「大隅半島」(九州本土)が溶岩で陸続きになった
・溶岩が数100m沖合の島を埋めた
・噴出物は2km3(うち溶岩は1.5km3)
・火山灰は「東北」まで降った
・「桜島」全体が30cm以上の火山灰、場所により1.5~2mで覆われた。


20170618_174817.jpg
 103年前に海へ流れ込んだ溶岩の2km先の対岸が「鹿児島」市街地です。よくもまあそんなところに60万人都市があるものです。

DSCN1815.jpg
 「桜島」と反対方向を見ると、「姶良カルデラ」の外輪山の淵が見えます。「鹿児島湾」自体が巨大なカルデラ湖としてできたもので、外輪山淵が切り立った断崖となって海に繋がっています。

20170626_143641.jpg
 建造物には、「桜島」の溶岩(たぶん安山岩)がちょこまかと使われています。

「ビジターセンター」
DSCN1856_20170910183520a23.jpg
 「ビジターセンター」では、「桜島」を地学的に見ることができます。入口に新鮮な火山灰をつかって絵文字か書かれていました。

DSCN1857_20170910183516b3b.jpg
 地層断面図です。時代の長さからみて堆積速度がすさまじいです。特に「大正大噴火」の軽石層の厚さが目立ちます。

DSCN1858.jpg

DSCN1859.jpg
 最近の噴火の様子が写真展示されていましたが、コメントを見ると日常の一部になっているのがよくわかります。「鹿児島」以外の人には信じがたい日常光景です。
 無論現地では火山の危険性を知ったうえで、よほどの大規模噴火でない限り日常生活できるよう危険対策をしているのでしょう。
 外人から「なぜ地震や噴火の多い「日本」に住んでいるんだ?」と聞かれても「住み慣れているから」と答えるようなものでしょう。

20170618_160348.jpg
 「桜島」に関する凄さがわかりやすく書いてあります。

「知覧特攻平和会館」

DSCN1902_20170903195127db7.jpg

 「鹿児島」滞在中に行ってきました。

 「知覧特攻平和会館」は、「鹿児島県知覧町」に位置し、先の大戦では日本空軍の基地が置かれ、大戦末期には特攻隊の出撃基地になりました。

 終戦後は特攻に関する記憶が国内では風化しつつあるなか、特攻隊員の日常や出撃を隊員の母として見守り続けた「鳥濱トメ」の尽力により、平和観音が建立され、特攻の実態を後世に残すためにこの平和会館が建てられました。

 館内には特攻隊員達の遺品や引き上げられた戦闘機、隊員たちの日記や「鳥濱 トメ」の肉声テープなどが展示されています。

 これらの展示を見て考えられるのは、欧米により仕掛けられた大戦が無ければ、あるいはここまで「日本」が敗戦に追い込まれなければ、特攻で亡くなった人たちは普通のひょうきんな兄ちゃんでその後もいただろうということです。

DSCN1898_20170903195124215.jpg

DSCN1900_20170903195126639.jpg
 敷地内には、特攻隊員や、それを見送る夫人・女学生の銅像が展示されています。

DSCN1896_20170903195122903.jpg
 一式戦闘機「隼」です。「大東亜戦争」の主力戦闘機として活躍した機体です。平成19年(2007年)に公開された「俺は、君のためにこそ死ににいく」の撮影にも使用されました。

DSCN1897_20170903195223dbf.jpg
 「隼」の近くに、その説明文がありました。

DSCN1901_20170903195225edf.jpg
 「鳥濱 トメ」と特攻隊員たちの写真です。

DSCN1903_2017090319522765d.jpg

DSCN1906_20170903195220240.jpg
 「三角兵舎」も展示されています。「三角兵舎」は、特攻隊員が出撃するまでの間泊まる宿舎です。

DSCN1911_20170903195225afe.jpg
 平和祈念館より1kmほど離れた場所が「知覧基地」の跡地があります。写真は滑走路の跡です。終戦後、基地は解体され農作地となりました。

DSCN1915_20170903195254262.jpg
 「知覧」の市街には、「鳥濱 トメ」が経営していた「富屋食堂」(復元)があります。現在は「ホタル館」として特攻隊員の様子が展示されています。かつては空軍パイロットや基地関係者、そして特攻隊員たちの憩いの食堂でした。

DSCN1916_20170903195254ea9.jpg
 隣には「富屋旅館」があります。戦後、特攻隊員の遺族が「知覧」を訪れた際に宿泊する施設です。

「京阪京津線」の山岳区間

 宿泊先の近くに「京阪京津線」の山岳区間があったので、沿線を歩いてみました。

61‰区間
DSCN1502.jpg
 61‰区間を上側から眺めてみました。「京津線」の線路は左側の国道をくぐっていきます。国道の奥は、ほぼ水平です。「京津線」の勾配は、高速道路やバイパスのインターチェンジランプ並みの勾配で道路下に潜り込んでいます。

DSCN1505.jpg

DSCN1506.jpg
 少し視線を下げると、勾配の急さがよくわかります。水平な奥の道路が上り坂に見えてしまいます。

DSCN1509_20170708220558cad.jpg
 反対側の景色はこうです。ちなみにこちら側は61‰よりも緩い41.1‰勾配です。

↓車内からの61‰
『「京津線」の61‰勾配』


半径45mの急カーブ(「逢坂山トンネル」坑口)
DSCN1511.jpg

DSCN1513.jpg
 「京津線」は勾配だけでなくカーブもめちゃくちゃ急です。最少曲線半径は40mです。「逢坂山トンネル」坑口上からは、路線内で3番目に急な半径45mのカーブをよく見ることができます。カーブはほぼ90°方向転換し、通過車両1両で20°近くも折れ曲がっています。

普通鉄道国内最急勾配の駅(「大谷駅」の40‰)
DSCN1518.jpg

DSCN1520.jpg
 以前も紹介した「大谷駅」を俯瞰してみました。駅の急勾配具合は、ホーム上からの方がわかりやすいです。

↓「大谷駅」構内についてはこちら
『40‰上の駅』

色黒探偵の爆走寺

 「鞍馬寺」といえば、「京都」の北山にある寺で、「奈良時代」に「鑑真」の弟子が毘沙門天を安置したのが始まりと言われています。

 そして「劇場版名探偵コナン 迷宮の十字路」で「服部平治」が「コナン」とともに、『「義経」になりたかったんや!』犯人をバイクで追跡した舞台です。

 「鞍馬寺」は「京都」を代表する観光地の一つですが、「叡山電鉄鞍馬線」の「鞍馬駅」(海抜約230m)から寺院(海抜約400m)まで170m近くも石段や坂道を登り、さらに「奥の院」につながる道では100mも高度を上げます。つまり、結構疲れます。

DSCN1609.jpg

DSCN1604.jpg

DSCN1606.jpg

DSCN1608.jpg
 寺院へ通じる道は、「金比羅山」のようにひたすら登ります。

DSCN1615.jpg
 途中にある「大杉」です。樹齢約800年、高さ約53mもあります。

DSCN1625.jpg
 標高400mの寺院からは、「鞍馬駅」周囲の谷筋が何とか俯瞰できます。

DSCN1624.jpg
 「源義経」が修行時代に利用していた湧き水らしいです。きっと犯人もあやかっていたことでしょう。

DSCN1619.jpg
 「木の根道」です。この辺りはすぐ下が硬い岩盤のため木の根が地中深くでなく、土壌面を這うように広がっている珍しい形態をなしています。

DSCN1622.jpg
 周囲は北山杉が多く生えています。よく整備されているためか?スギ花粉の時期は多少過ぎてはいるものの、花粉症の気配はしませんでした。

DSCN1632.jpg
 「鞍馬駅」です。駅舎は「京阪鴨東線」が「出町柳」まで開通した平成元年(1989年)に寺院風に改築されました。

DSCN1633.jpg

DSCN1634.jpg
 「鞍馬駅」の改札口です。
 映画ではこの改札口を『「義経」になりたかったんや!』犯人と、「大阪府警」本部長の息子と「コナン」がバイクのまま突破しました。
 「そんなに急がなくても…」駅員は、劇中よりも若かったです。

DSCN1629.jpg
 劇中で彼らはそのまま「鞍馬線」の線路を爆走していきました。あのあと「コナン」の予想通り免停になったのでしょうか?

DSCN1636.jpg
 「鞍馬線」名物の「紅葉のトンネル」を見やすいよう窓が大きくなっている「900系」です。「鞍馬線」は、50‰勾配を所有する「‰の会」にも認定されている登山鉄道でもあります。

DSCN1627.jpg
 「鞍馬駅」には、「京都電燈デナ21形電車」が屋外展示されています。この車両は昭和4年(1929年)の「叡山線」黎明期あたりから生産されました。

「電車でGo!」の原点鉄道

 題名の由来を知っている人は少ないかもしれませんが、「京都」観光では非常に有名な「嵯峨野観光鉄道嵯峨野観光線」です。この路線は「山陰本線」の「馬堀」~「嵯峨嵐山」間における旧路線で、平成元年(1989年)に「山陰本線」のこの区間の新線への切り替えに伴い廃止となりましたが、平成3年(1991年)に観光鉄道としてトロッコを走らせることで復活しました。

 当時は「年間乗降数23万人で数年のブームが最初にあったのちにまたローカルになる」と予想されていましたが、初年度でその3倍の69万人、現在では100万人もの利用者が押し寄せる超成功した路線となりました。これを考えた人の発想がすごいです。

 そして、あの「電車でGo!」では初級コースとして登場しました。「電車でGo!」が発売された平成9年(1997年)にはとっくに観光鉄道化されていましたが、ゲーム内ではあえて「山陰本線」現役時代として登場していました。

この路線は人気が非常に高く、特に下流→上流コースが中々乗れないため、上流→下流コースで行きました。

DSCN1558.jpg
 「トロッコ馬堀駅」です。右の複線+トンネルが「山陰本線」(新線)、左の単線が「嵯峨野観光線」(旧線)です。

DSCN1557.jpg
 上の写真と同じ場所から反対側を見ると、この路線が「山陰本線」に合流しそうなのがよくわかります。

DSCN1560_20170625213306d51.jpg

DSCN1561.jpg
 客車は「国鉄トキ25000形貨車」を改造したものを使っています。人を乗せるための車両でなく、荷物用の貨車そのものです。なので、車体の振動を直に感じることのできる楽しい人には楽しい車両です。

DSCN1562.jpg
 貨車専用の車両たちはしっかり自動連結器です(最近の乗客用は密着式連結器が主流)。

DSCN1563.jpg
 車両によっては窓ガラスなしの開放的なものになっています。チケットはすべて指定席ですが、椅子は赤の他人と相席になる上通路側だと人が邪魔なため、立ち席にしたほうがよいです。

DSCN1553.jpg
 ちなみに、「馬堀駅」近辺は、「明智光秀」が「本能寺」に向けて進軍した場所でもあります。それとは想像つかないゆるキャラになっていますが。

DSCN1564.jpg
 「馬堀」では馬車もみかけます。

DSCN1567.jpg
 「保津峡」です。車内は混んでいるため、景色を見る負担がかかります。「保津峡」の地質はメランジュが主らしく、チャートなどの険しい峡谷を造る原因となる硬い岩もあるそうです。

DSCN1569.jpg
 途中で3回「山陰本線」(新線)と交差します。「山陰本線」の列車と立体交差ができたらいいですが、今回は見られませんでした。

DSCN1576_201706252135344f4.jpg
 車窓からは、川下りをしている舟やボートをしょっちゅう見かけます。

DSCN1585.jpg
 「トロッコ嵐山駅」にて。ここで右の「山陰本線」(新線)と合流します。トロッコ列車は「トロッコ嵐山」~「トロッコ嵯峨」間の約1kmは、上下線とも「山陰本線」の下り線を走ります。つまり、上り列車は逆走運転をします。

DSCN1590.jpg
 「トロッコ嵯峨駅」にて。先頭の機関車は、「国鉄DE10形ディーゼル機関車」で、この形式は昭和44年~48年(1969~1973年)に製造された機関車です。現在もかくJRの車両所などで活躍しています。
NEXT≫
プロフィール

太郎の部屋

Author:太郎の部屋
太郎の部屋にようこそ!

カレンダー
01 | 2018/02 | 03
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 - - -
部屋に来た人
地域別訪問者数

ジオターゲティング
月別アーカイブ
カテゴリー
最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
バロメーター
ブログ内検索
リンク
RSSフィード
ブロとも申請フォーム