「鳥取旅行」 5日目 「岡山」 → 「名古屋」→「静岡」

 5日目は「岡山」から「名古屋」の「リニア・鉄道館」を訪れつつ「静岡」に滞在しました。朝に「ヒバリ」と別れを告げて新幹線で一路東へ向かいました。

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 「新大阪」までは、「九州新幹線」最速列車の「みずほ」に乗って行きました。車両は「700系7000番台」で、最高速度は「山陽新幹線」内では300km/h(「九州新幹線」内では260km/h)です。「九州新幹線」にある35‰の勾配でも走れる設計です。室内は、木製風の作りになっていました。

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 「新大阪駅」です。現在27番線の線路とプラットホーム、2本の留置線を増築中です。あと1~2年で完成し、「新大阪駅」は5面8線の巨大駅になります。そして、「のぞみ」を片道1時間につき10本さばけるようになります。

「リニア・鉄道館」

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 「リニア・鉄道館」は、今年の3月に「名古屋」にできた、「JR東海」が所有する鉄道博物館です。さいたまの鉄道博物館のように、かつて現役で動いていた車両が多数展示され、鉄道の仕組みについて分かりやすく展示してあります。規模はさいたまの方より小さいものの、新幹線やリニアについて重点的に展示してあります。

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 一番の目玉ともいえる「0系」です。「東海道新幹線」が開通した昭和39年(1964年)10月~平成20年(2008年)12月の、実に44年にわたり活躍してきた車両です。そして、「日本」の、世界の高速鉄道のパイオニアとして斜陽と言われていた鉄道を大きく道が選らせた存在でもあります。ここでは、割かし初期に多かった広い窓の車両が展示されていました。

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 「シンデレラエクスプレス」と称された「100系」です。新幹線としては、初めて2階建て車両が組み込まれました。現在は「山陽新幹線」内で4両編成の「こだま」として現役稼動しています。ただし、今後新型車両が増えていけば近いうちに引退するかもしれないので、早めに乗っておくべき車両でもあります。

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 「クハ111形式電車」です。湘南電車とも呼ばれ、「東海道本線」の通勤電車で近年まで活躍した最初の新性能近郊形電車です。「東海道本線」の沿線の人にとっては最もなじみ深い電車の一つでしょう。「静岡」では車体の色が茶とみかんに似ているためかなり親しまれていました。

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 蒸気機関車として非常に有名な「C57」です。おおよそ35年前まで活躍し、現在ではごく一部が動態保存されています。

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 このように、廃車になった、もしくは今後減少する車両が多く展示されています。

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 「ドクターイエロー」と呼ばれている、電気軌道総合試験車です。かつて活躍していた「0系」型の「922形」です。通過時間を把握していない限り、普段はほとんど見ることのない幻の車両でもあります。

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 現在、敷地面積が日本一広い鉄道ジオラマがありました。ジオラマは「東海道新幹線」沿いの町や景色を基に作られ、様々な時代の列車が走ります。1編成あたりの車両数も実際の数に合わせて作られています。



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「鳥取」旅行 4日目 「鳥取」 → 「岡山」

 この日は、「鳥取」から「岡山」へ「ヒバリ」のご両親に連れて行ってもらいました。おそらく今日が一番のんびりしていた日です。

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 「鳥取県」と「岡山県」の境付近。宅配車両が宅配されいていました。

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 途中にループ橋がありました。

「岡山城」
 「岡山」到着後は、今までお世話になった「ヒバリ」のご両親方と別れました。そのあとは近くにある「岡山城」と「後楽園(「東京」とは別のもの)」へ行きました。
 「岡山城」は、戦国時代末期に「豊臣秀吉」より「宇喜多秀家」に授けられた城で、「関ヶ原の戦い」の跡は一時期「小早川秀秋」の居城ともなっていました。

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 4重6階の立派な天守閣です。残念ながら天守閣は、大東亜戦争末期に米軍の空襲で破壊され、今では鉄筋コンクリート天守閣として復活しています。「日本」の城の天守閣は全体的に白いもの(「姫路城」、「会津若松城」など)が「徳川幕府」に忠実な大名の城、全体的に黒いものは(「熊本城」など)「徳川幕府」に反抗的な大名の城といわれています。「秀吉」時代の「大阪城」の天守閣が黒かったことから、「秀吉」に忠実な大名が黒い天守閣を造ったところからきているようです。なるほど納得です。

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 天守閣からの景色です。「岡山」市内や「後楽園」が一望できます。しかしまあ、この旅行では行く先々で靄がかかっていますね。雨が降らないだけまともとも言えますが。

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 「宇喜多秀家」時代の石垣が所々掘り出されていました。石垣は大体が花崗岩でした。

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 唯一残った現存の櫓があります。重要指定文化財ですが、敷地の隅にあって人気が少なかったです。

「後楽園」
 「後楽園」は江戸初期に「岡山」藩主の「池田綱政」によって造営された、元禄文化を代表する庭園で、「日本」の3名園(「金沢市」の「兼六園」、「岡山市」の「後楽園」、「水戸市」の「偕楽園」)の一つです。

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 庭園内ではこのような景色が鑑賞できます。様々な植物や辻山、水の流れる休憩場(足湯と間違えてはいけません)などがあります。場所によっては「岡山城」の天守閣を見ることができます。

 その夜は、まったり過ごしました。

「鳥取」旅行 3日目 「境港」 → 「松江」

 この日は、ちょっくら西のほうへ行ってきました。行った場所は、「水木しげる」生誕地である「境港」と、「島根県」の「松江城」です。結構遠かったです。

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 「鳥取駅」です。貨物列車の通過選(いちばん左)や中線(左から4番目の線路)などの、プラットホームに接していない線路が目立ちます。この辺は非電化区間なので列車は「気動車」と呼ぶのが正しいですが、いつもの癖で「電車」と呼んじゃうんですよね。写真奥の黄色い気動車は、特急です。

「境港市」
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 「境港」の玄関口といえる「米子駅」です。ここから「境港」へ向かう「境港線」の列車には、「ゲゲゲの鬼太郎」のキャラ達が描かれている車両があります。「鬼太郎」、「ねこ娘」、「目玉おやじ」、「ねずみ男」の4種があります。世間的にはこういうのは「痛列車」とは言わないんですよねえ。

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 「米子駅」にも、「鬼太郎」の銅像がありました。

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 「境港駅」前には「水木しげる」の銅像がありました。ここから1kmほどは「水木しげるロード」と呼ばれる道が続いています。周りには「鬼太郎」に関する土産や商品を売っている店が立ち並んでいます。



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 「水木しげるロード」の途中には、「水木しげる記念館」がありました。ここで、彼の生い立ちや様々な作品について閲覧できました。

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 「水木しげる」生誕の地です。

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 近くの博物館へ行ってきました。下の写真のハリセンボンはすべて本物だろうか?

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 クジラの骨がありました。

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 昼食は、ナルトが鬼太郎型になっているラーメンです。


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 「目玉おやじ」の銅像です。みんながなでているため、ピカピカです。声優の「田の中勇」さんが偲ばれます。

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 帰りは「ねこ娘」の列車でした。


http://http://www.nicovideo.jp/watch/sm183768
 「ねこ娘」と言えば、こんな比較がありました。めちゃくちゃ変化しましたね。「峰不二子」並みの変化率です。1期が最も原作に近く、個人的には3期のものが一番見覚えあります。ちなみに、5期は「小神あきら様」の声優が演じております。



「松江城」

 そのまま駆け足で「松江城」へ向かいました。時間的に「松江城」が一番いける最も遠い場所です。思い切って特急列車を使いました。
 「松江城」は「日本」に現存する数少ない“本物”の天守閣を持つ城です。

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 天守閣は4層5階建ての、かなり大きなもので、地下階には深さ24mの井戸が残されていました。石垣は主に花崗岩や安山岩起源です。ほにゃらら帯(たぶん「飛騨帯」)の花崗岩や「大山」の火山岩が近くでとれるからでしょうか?

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 やっぱり、現存の天守閣は雰囲気がいいです。上からは「松江」市内が一望できました。ただし、もやがかかって遠くが見れなかったのが残念です。「松江」はそのほかにも城下町や武家屋敷など、みられるものがたくさんあるため、今後また行ってみたいです。

胃も心も折れた
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 「鳥取」に戻った後は、カレー屋へ行きました。そこで出されるカレー(大)を食べてみました。何気に容器がでかくて、出されたときに悪いフラグを感じました。米は4合、4人前の量です。半分くらいでヤバくなりました。アンパン生活を続けた「山崎」のような感じです。後半は一口一口牛歩で食べ、0.5合分は「ヒバリ」に助けてもらい、1時間半かけて食い切りました。ここ数年、胃袋の早大食い耐性が下がってきていますね。

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 食後の様子。なにも演じていない、正直な姿です。僕らの近くでは、学生集団が同じものを一つ食べていましたが、僕と同じような状況になっていました。「ヒバリ」の家に戻った後は、2時間くらい横になりました。おかげで、その日も酒なしで過ごしました。

「鳥取」旅行 2日目 「鳥取砂丘」 → 「鳥取城跡」

 1夜開けた2日目は、昨日が疲れた日であったこともあり、ゆるめの日程を考えていましたが、結果的にちっともゆるくありませんでした。


「鳥取砂丘」

 まずは、「鳥取」と言えば最も多くの人が思い浮かぶ、「鳥取砂丘」に行ってきました。「鳥取砂丘」は、日本三大砂丘の1つで、南北2.4km、東西16kmに広がる日本最大の観光砂丘です。地質百選にも登録されています。何帯のどんな地層か知ったこっちゃあありませんが、「鳥取県」の山中は花崗岩が豊富です。その花崗岩が風化してできた砂(「マサ」といいます)が海に流れ、海岸に堆積して「鳥取砂丘」としてできたそうです。そのため、砂がとてもきれいです。

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 海岸から1~2km離れた道路からでもこんな景色が見えます。

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 入口から見た、海よりの景色です。広すぎます、これでも全体の一部でしかないのが驚きです。

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 ラクダに乗りました(キラッ!。こぶに触ってみましたが、脂肪の割には硬さがありました。なんだかラクダが連休の疲れか?そっぽを向いていました。

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 砂丘の最も高い“山”の一つである、「馬の背」です。高さはなんと、60mもあります。全部砂山です。傾斜は45度くらいあり、海岸に向けてずっと下っています。

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 てなわけで、走り抜けてみました(「ヒバリ」撮影)。「富士山」の「御殿場登山道」にある砂走りみたいに、華麗に疾走できました。大体20秒ほどで海まで60m下れました。練習すれば、15秒をきれるかも。

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 下からみた様子です。「えっ!ここ登るの?」と思いました。まあ、迂回して緩やかに上ればそんなに大変ではありませんが、一度は最短で直に登りたい、という安易な発想でここ、登って帰りました。

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 下りは天国ですが、登りは地獄です。砂に足を取られて45度の急斜面を登るのですから。心拍数がよゆーで120をこえてオーバーヒートしそうになり、かろうじて登りきった後は、上の写真のようになりました。若者たちが僕と同じように疾走をして登って戻ってきましたが、みんなグロッキーでした。中には、仲間から「顔上げろよ~ww」と言われてました、可哀そうに。経験者の「ヒバリ」は、「予想通りだった」と言ってましたwww。


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 反対の陸地側の斜面です。下は水がたまっているオアシスです。こっちはくだっても緩やかに上る場所があるため、楽です。

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 「ヒバリ」が疾走してきました。他人から見ると、下っている人は非常に速いです。

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 オアシスの水は、近くの川の伏流水が染み出してきたものです。

「鳥取城跡」
 その後、駅前のカレー屋さんでカレーを食べて「鳥取城跡」を見に行きました。「鳥取県」は、「日本」でもっともカレーの消費量が多い都道府県だそうです。「鳥取城」は、標高263mの「久松山」(きゅうしょうざん)の上に聳え立つ平山城です。
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 こんな山の上に城があるのです。登るだけでもけっこうなのに、この上に人力で城を作ることが想像つきません。

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 近くに歴史博物館がありました。土器復元コーナーがあったので、元の木阿弥に戻してみました。

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 麓には、「仁風閣(じんぷうかく)」という、洋館が立っています。「仁風閣」は、明治40年(1907年)、当時の皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の山陰行啓時の宿泊施設として鳥取城跡の扇御殿跡に建てられました。

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 皇族専用の御休所などが2階に備えられています。

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 心柱の無い螺旋階段がありました。構図はとある資料を参考にさせていただきました。

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 麓には、豪華な石垣が残って・復元されていました。石垣の石は、花崗岩や安山岩が多いようです。

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 そして、山頂まで登りました。最近暑いので、かなり汗だくになりました。上には、天守閣の跡らしき石垣がありました。考査の影響か?残念ながら「大山」などの景色は拝めませんでした。かろうじて、「鳥取砂丘」は見渡せました。

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 近くには、廃止になったロープウェイの山頂駅?跡がありました。マニアが来そうですね。

 そんなこんなで、のんびり日程の予定がパーになるくらい歩きまわりました。そして、体中に砂丘の砂をおんもちかえりぃ~いたしました。

「鳥取」旅行 1日目 「京都」 → 「鳥取」

 予想通り、疲れが全く取れませんでした。安さに惹かれますが、乗ってからいつも後悔しますね。せめて乗る前に睡眠を十分にとったほうがいいです。あまりの眠たかったので、あえて「大阪」まで寝て過ごして「環状線」で時間と「コロニーな生活」の移動距離を稼いで、ころ合いを見て「京都」へ戻り、「ヒバリ」と再会しました。お互いお元気そうでなによりで。

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 「大阪駅」です。いろいろ変わっていました。まるで「ヨーロッパ」の駅みたいです。


「京都」市内
 再開後は、競馬の時間が来るまで「京都」市内を探訪しました。「京都」は見る者がすごく多いので、短時間でもそれなりの数を見て回れました。

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 あの「本能寺」です。いまも寺は残っていたんですね。

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 「京都市役所」です。年季が入った建物です。完全なシンメトリー…なのかな?

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 昼ごはんの場所に近いというアドリブ的理由で訪れた、「六角堂」です。正確には「頂法寺」の本堂ですが、建物の形が上から見て六角形なのでそうよばれています。

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 近くのバイキングで昼食をとりました。野菜中心のバイキングで有名らしく、12:00頃には長蛇の列ができていました。健康指向の食事をする人が多いみたいですが、せっかくのバイキングなので「元祖デブや」のような食事をとっていきました。

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 「鴨川」にかかる「四条大橋」です。コナンの映画で見たことのある建物が!!

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 「八坂神社」です。この片、かなり車で混雑していました。桜の咲く季節に行ったらすごいことでしょう。

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 その後、「京都競馬場」に行き、競馬しました。観客は老若男女、友達同士、家族づれなど様々でした。たばこを吹かしたおっさんが赤鉛筆を耳にはさんでいる群衆は、マンガの世界の話でありました。で、僕は掛け金の4分の3が戻ってきて4分の1は娯楽費として消えました。

 その後、「ヒバリ」のご家族と「鳥取」へ向かいました。「鳥取」についた時点で、移動距離は800kmに迫っていました。

「鳥取」旅行 0日目 「新潟」 → 「大阪」

 ゴールデンウィークにようやくまとまった休みをいただいたので、「ヒバリ」のいる「鳥取」へ旅しました。順路は、
 
0日目 「新潟」 → 「大阪」
1日目 「京都」 → 「鳥取」
2日目 「鳥取砂丘」 → 「鳥取城跡」
3日目 「境港」 → 「松江」
4日目 「鳥取」 → 「岡山」
5日目 「岡山」 → 「名古屋」 → 「静岡」
6日目 「静岡」 → 「東京」→「新潟」


です。

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 朝に「京都」につけるように数少ない夜行急行のひとつの「きたぐに」で行きました。旅費代をけちるため、帰りは新幹線で帰るためにあえて自由席で行きました。

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 「きたぐに」は、現在の日本で唯一寝台が3段重ねになっています(正確には、B寝台が3段重ねでA寝台が2段重ね)。カプセルホテルのようです。寝台券がかかるとはいえ、座席で雑魚寝するよりはずっと快適でしょう。


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 「グリーン席」です。リクライニング機能付きの個別椅子です。ここなら「自由席」よりかなり疲れが取れそうです。ちなみに、急行「能登」の自由席は、この型でした。

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 「自由席」です。すいている限りは椅子2人以上分を使って雑魚寝です。混まないことをお祈りする席です。色々姿勢を考えて寝ますが、1時間ほどで限界がきて起きて体制を変えてまた寝て…の繰り返しです。だりぃです、おかげでコロニーの位置登録をある程度できましたが、慰めには足りないです。思い切って床でごろ寝したいです。「サンライズ出雲」みたいなのびのびシートがあれば重宝されそうですね。

「東北地方太平洋沖地震」 その4 他の地震の誘発について

 起きた地震が巨大なほど、別の場所(震源域)で誘発されて起きたと思われる大地震がおきるらしいです。「東北地方太平洋沖地震」では、発生後に「長野」、「千葉」、「静岡」、「秋田」などの地域でもM5以上、震度5弱以上の、普段ならトップニュースで数日間報じられそうな大地震が起きました。これらの地震も「東北太平洋沖地震」の莫大な威力で誘発されて起きたといわれています。

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http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2011040902000020.htmlに加筆。
 上図は、「東北地方太平洋沖地震」(赤色線で表記)「関東地震(関東大震災)」(青い路線で表記)「東南海・南海地震」(緑色線)で表記と、それらに誘発されて起きたのでは?と言われる地震をある程度載せたものです。これらの巨大地震の前後数日~数年の間にそれらの震源域に近い地域で大きめの地震が頻発しているようです。

 4つものプレートが押しあいへしあい、沈み込み・引きずり込みあいをしている「日本」では、沈み込む海洋プレートに反発して大陸プレートがひずみを解放することによって起こる「プレート境界型地震」(「東北地方太平洋地震」など)とプレート同士の押しあいへしあいによってプレート境界から少し離れた場所がひび割れて(断層が出来て)起こる「プレート内型地震」(「兵庫県南部地震」、「新潟県中越地震」など)等の地震が起きます。プレート同士は年中無休で昼夜関係なく動き、押しあいへしあいなどを続け、常にどこかでひずみがたまってそれを解放する(プレートの跳ね上がりやひび割れる(断層形成)のこと)機会をうかがっています。そんな場所に巨大・超巨大地震が一度起こると、その衝撃でひずみがたまっている場所、ひずみに弱い場所にひび割れが生じ、地震が起きます。

 上図のとおり、「東北地方太平洋沖地震」は規模が大きく震源域があまりにも広いです。それだけ他の場所にも衝撃が広まり、震源域内の「余震」をはじめ、他地域でも大地震が誘発されたようです。「関東地震」(関東大震災)や「東南海・南海地震」のときも、これだけの地震が数年のうちに起きました。とくに、昭和19年に「東南海地震」が起きた2年後に「南海地震」が起きているのは、「南海地震」が誘発されて起きたとも想像できます。

幕末(安政)の地震多発例
 幕末の安政時代は日本で多くの大地震が発生した時代です。

安政元年(1854年)
7月9日 伊賀上野地震(伊賀・伊勢・大和地震) - M 7.6、死者約1,800人。

12月23日 安政東海地震(東海・東南海地震) - M 8.4、死者2,0003,000人。房総半島から四国に津波、特に伊豆から熊野にかけて大きな被害。

12月24日 安政南海地震 - M 8.4、死者1,0003,000人。紀伊・土佐などで津波により大きな被害(串本で最大波高11m)。

安政東海・南海地震は32時間の時間差で発生。両地震による死者の合計は約3万人との説もある。余震とみられる地震は9年間で3,000回近く。

12月26日 豊予海峡で地震 - M7.4。東海・南海と併せ、4日間で3つの巨大地震が発生。


安政2年(1855年)
3月18日 飛騨地震 - M 6.5、死者少なくとも203人。金沢などでも被害。

11月11日 安政江戸地震 - M 6.9、死者4,7001万1,000人。

安政4年(1857年)
10月12日 伊予、安芸、今治で地震。城内破損。死者5人。

安政5年(1858年)
4月9日 飛越地震 - M 7.0 - 7.1。地震による直接の死者数百人、常願寺川がせき止められ後日決壊、それによる死者140人。 ←「鳶山」などが崩壊して「立山カルデラ」が形成される。カルデラ内には、決壊したら「富山市街地」を1~2m埋め尽くす量の土砂が今も溜まっている。

7月8日 東北地方太平洋側で地震。M 7.0 - 7.5。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E9%9C%87%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8より

 特に、「東海・東南海地震」が発生した32時間後に「南海地震」が起こり、さらに2日後に「四国・九州」でも地震が起きています。黒船が来航した当時の情勢と相極まり、これらの地震は、「日本」社会を混乱に陥れた一因となりました。

 他にも、M9.3の「スマトラ島沖地震」(平成16年(2004年)に発生)が起きた翌年以降にほぼ毎年同じプレート境界でM7~8級の地震が起きていますが、これも2004年の地震に誘発されて起きたのではないか?と言われています。超巨大地震・巨大地震の起きた後に、それに次ぐ大地震が同じ地域で頻発する例は、探せばほかにもたくさんありそうです。

地震が誘発されやすい状況
 また、気になるニュースが掲載されていました(以下、URLまではコピペ文)

首都圏地盤に力、南関東のM7級誘発も…東大研
 東日本大震災で起きた地殻変動の影響で、首都圏の地盤に力が加わり、地震が起きやすい状態になっているとの解析結果を、東京大地震研究所のグループが22日、発表した。

 解析結果は、大震災後に発生した地震の分布ともほぼ一致している。同研究所では、国の地震調査委員会が今後30年間に70%の確率で起きると予測しているマグニチュード7級の南関東の地震が誘発される可能性があるとして、注意を呼びかけている。

 同研究所の石辺岳男・特任研究員らは、首都圏で過去24年間に起きた約3万の地震で破壊された領域が、大震災でどのような影響を受けたかを解析。地震が起きやすくなる力が働く領域は約1万7000で、起きにくくなる領域の約7000よりも多いことが分かった。震源が30キロよりも浅い地震は静岡県東部から神奈川県西部で、30キロよりも深い地震は茨城県南西部、東京湾北部で起きやすくなっていることが判明した。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110422-00000974-yom-sci
 「関東」地域に絞っても、「東北地方太平洋沖地震」の刺激を受けているようです。「日本」を取り巻くプレートの関係や動きはとてつもなく複雑で今後どうなるかわかりませんが、この記事を読む限りでは地震が誘発される可能性が高くなったようです。

 なお、これまで取り上げた誘発された地震ですが、本当に超巨大・巨大地震に誘発されて起きたという物的証拠はありません。あるのは「実際に起きた場所と時間が集中する傾向にある」という“状況証拠”です。4枚ものプレートが押しあいへしあいをし、地下でとてつもなく多数の断層、地質構造が地下にある「日本」の地下は、どのような力がどのようにかかり、どう影響するのか?を予知するのは今のところほぼ不可能なのです。ましてや、地下を直接見られず探知機で間接的に見るしかないのでなおさらです。そのため、ニュースのコメントでも「誘発された地震だ!」とは断言せず、「誘発された可能性が考えられる」と語られるのです。いずれにせよ、これだけの短期間に地震が頻発するので、素人目でもヤバいと感じるのはなにもおかしいことではありません。地球では地域によって地震の頻発する傾向の時代としない傾向の時代が交互に起きている話があります。もしかしたら「日本」もその真っただ中にいるのでしょうか。

 ちなみに「関東・甲信越」より西側で地震がほとんど起きていないのは、「東北地方太平洋沖地震」の震源域とプレート境界を介しているからだそうです(「東北地方太平洋沖地震」の震源が「関東」沖で止まったのも「フィリピン海プレート」に阻まれたためと言われている)。まあ、「静岡県東部」でも地震が起きたので100%とは言えませんがね。
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