現在の「熊本城」
「熊本」へ行ってきたので、現在の「熊本城」の様子を見てきました。
テレビや新聞ネットで何度も報じられている、「熊本地震」の被害を受けた「熊本城」ですが、現地で見てみると、その被害の大きさがより実感できます。
大きめの地震では、城の損傷は大規模なものが2~3か所あるというイメージですが、「熊本城」の場合はその大規模な損傷・崩壊が見えただけで数十か所(実際はもっと多いはず)あるということです。「天守閣」の復興は最優先工事で3年、城郭全体の復旧に20年以上、600億円以上かかるのがうなずけます。
地震から9か月が経過していますが、見た目では、復旧工事のスタートラインに立っている状態です。
「熊本城」被災の特徴印象
① 大規模崩落が外から見えただけで数十個所ある
② (当たり前だが)町やライフラインの復興がまだまだこれからも優先
③ 城郭修復の専門業者が少ない
現在の「熊本城」は、「二の丸広場」などの外側から様子を見ることができます。内堀より内側、「天守閣」などは今も立ち入り禁止です。
「馬具櫓」


石垣が崩れて内側の中詰め石ごと崩落し、上部の櫓が沈下しています。このような形の被害が、他にも多く見受けられました。
「二の丸広場」からみた城内

ここから先、「天守閣」側は立ち入り禁止です。

奥には崩落した石垣が今も散乱しています。
「二の丸広場」


立ち入り禁止の柵が、いたるところに張り巡らされています。柵の内側は崩落で危険な個所であったり、写真のように復旧工事の基地にもなっています。
「二の丸駐車場」

こうした観光用に使われるであろう建物前にも、工事に使うカラーコーン類が山高く積まれています。
「未申櫓」

櫓のとなりの石垣が完全に崩落しています。ここの復旧、崩落対策工事だけでも数年はかかりそうです。
「西出丸」の長壁



長壁も全体が潰れています。
「西大手門」

約100m遠方から撮影(門手前の広場は前面が立ち入り禁止)。建屋の下が完全に崩れ去っています。角の算木積をしている部分は基本強度が高いため、かろうじて残っています。そこで上のひずんでいる建屋をどうにか支えています。
「戌亥櫓」と石垣

こちらの石垣も全体が崩落しています。

石垣の崩壊は、間近ではこう見えます。


櫓の土台部も中抜け崩壊しています。ここも角の石垣で建屋を支えています。上の櫓には、土台崩落による歪が見られます。

「宇土櫓」


櫓となりの長壁が崩落しています。遠目から見て櫓やその下の石垣は大きく損傷していないようです。
「加藤神社」への通路

一般人が通れる通路は、大型土嚢で補強してあります。
「不開門」付近


石垣だけでなく、中の地山の崩落も激しいです。かなり深い場所までえぐれています。一部は吹き付けモルタルで補強されています。
「天守閣」

ニュースでよく映された「天守閣」です。ここからは「天守閣」や櫓がきれいに並んでいるのが見えますが、崩落が痛々しいです。

「大天守」と「小天守」です。「小天守」の下の石垣が崩落して建屋と隙間ができています。石垣自体の崩落がまだ他と比べて少ないのは、「天守閣」が大きく重いため、石垣が地震動でばらけるのをそこそこ抑止されたからでしょうか?ただ、外目ではわからない反対側は一部が崩落しています。
いずれにしても復旧には相当な手間がかかるのは明らかです。


「天守閣」の屋根瓦も、当時の報道のまま、剥がれ落ちていました。建屋の方は無事なのでしょうか?
報道では城郭全体の中で一番優先して3年で復旧させる見込みです。

地元の小学生たちが作成したペットボトルによる「天守閣」です。
テレビや新聞ネットで何度も報じられている、「熊本地震」の被害を受けた「熊本城」ですが、現地で見てみると、その被害の大きさがより実感できます。
大きめの地震では、城の損傷は大規模なものが2~3か所あるというイメージですが、「熊本城」の場合はその大規模な損傷・崩壊が見えただけで数十か所(実際はもっと多いはず)あるということです。「天守閣」の復興は最優先工事で3年、城郭全体の復旧に20年以上、600億円以上かかるのがうなずけます。
地震から9か月が経過していますが、見た目では、復旧工事のスタートラインに立っている状態です。
「熊本城」被災の特徴印象
① 大規模崩落が外から見えただけで数十個所ある
② (当たり前だが)町やライフラインの復興がまだまだこれからも優先
③ 城郭修復の専門業者が少ない
現在の「熊本城」は、「二の丸広場」などの外側から様子を見ることができます。内堀より内側、「天守閣」などは今も立ち入り禁止です。
「馬具櫓」


石垣が崩れて内側の中詰め石ごと崩落し、上部の櫓が沈下しています。このような形の被害が、他にも多く見受けられました。
「二の丸広場」からみた城内

ここから先、「天守閣」側は立ち入り禁止です。

奥には崩落した石垣が今も散乱しています。
「二の丸広場」


立ち入り禁止の柵が、いたるところに張り巡らされています。柵の内側は崩落で危険な個所であったり、写真のように復旧工事の基地にもなっています。
「二の丸駐車場」

こうした観光用に使われるであろう建物前にも、工事に使うカラーコーン類が山高く積まれています。
「未申櫓」

櫓のとなりの石垣が完全に崩落しています。ここの復旧、崩落対策工事だけでも数年はかかりそうです。
「西出丸」の長壁



長壁も全体が潰れています。
「西大手門」

約100m遠方から撮影(門手前の広場は前面が立ち入り禁止)。建屋の下が完全に崩れ去っています。角の算木積をしている部分は基本強度が高いため、かろうじて残っています。そこで上のひずんでいる建屋をどうにか支えています。
「戌亥櫓」と石垣

こちらの石垣も全体が崩落しています。

石垣の崩壊は、間近ではこう見えます。


櫓の土台部も中抜け崩壊しています。ここも角の石垣で建屋を支えています。上の櫓には、土台崩落による歪が見られます。

「宇土櫓」


櫓となりの長壁が崩落しています。遠目から見て櫓やその下の石垣は大きく損傷していないようです。
「加藤神社」への通路

一般人が通れる通路は、大型土嚢で補強してあります。
「不開門」付近


石垣だけでなく、中の地山の崩落も激しいです。かなり深い場所までえぐれています。一部は吹き付けモルタルで補強されています。
「天守閣」

ニュースでよく映された「天守閣」です。ここからは「天守閣」や櫓がきれいに並んでいるのが見えますが、崩落が痛々しいです。

「大天守」と「小天守」です。「小天守」の下の石垣が崩落して建屋と隙間ができています。石垣自体の崩落がまだ他と比べて少ないのは、「天守閣」が大きく重いため、石垣が地震動でばらけるのをそこそこ抑止されたからでしょうか?ただ、外目ではわからない反対側は一部が崩落しています。
いずれにしても復旧には相当な手間がかかるのは明らかです。


「天守閣」の屋根瓦も、当時の報道のまま、剥がれ落ちていました。建屋の方は無事なのでしょうか?
報道では城郭全体の中で一番優先して3年で復旧させる見込みです。

地元の小学生たちが作成したペットボトルによる「天守閣」です。
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新幹線車両が全力を出した時の最高速度
乗り物には、「設計最高速度」という、全力運転をした時に出せる理論上の最高速度があります。単純に言えば(厳密に言えば微妙に違うが)、鉄道の場合は、水平なところでの全力最高速度(均衡速度ともいう)です。そして、実際の営業運転では、そこまでのスピードを出した運転をしません。これは。最高180km/hとかで走れる車が本当に一般道を180km/hで走ると色々な意味でやばいのと同じです。
新幹線では各路線、各車両で最高速度が定められていますが、これらが全力を出したらどうなるのか、比較してみます。
ここでいう全力とは、水平時の均衡速度だったり、設計最高速度だったりと、車両によって定義は違います。あくまで適当に調べたので。
0系 「東海道・山陽新幹線」
実際:220km/h 全力:235km/h
100系 「東海道・山陽新幹線」
実際:230km/h 全力:276~289km/h
200系 「東北・上越・北陸新幹線」
実際:240km/h 全力:250km/h、下り坂利用で275km/h
300系 「東海道・山陽新幹線」
実際:270km/h 全力:296~325km/h
500系 「東海道・山陽新幹線」
実際:300km/h 水平全力:365km/h
700系 「東海道・山陽新幹線」
実際:285km/h 全力:340km/h
N700系 「東海道・山陽新幹線」
実際:300km/h 全力:少なくとも330m/hは可能
E2系 「東北・上越・北陸新幹線」
実際:260~275km/h 全力:315km/h
E5系 「東北・上越新幹線」
実際:320km/h 3‰上り全力:360km/h
こうしてみると、「100系」は全力を出せば、今の「東海道新幹線」の「のぞみ」並みに出せるようです。
「200系」は、歴代車両の中で、もっともスペック以上の運転をできた列車でしょう。
逆に「500系」は、「E5系」が320㎞/h運転をする15年近くも前に320km/h営業運転を目指し、かなり現実的になりましたが、「兵庫県南部地震」後の安全基準変化や騒音問題で実現しませんでした。
現在最速の「E5系」は、やろうと思えば夢の360km/h運転をできるようです。ただし、その運転ができる区間は、どこまであるのでしょうか?
各車両が全力運転をしたらどこまで時間を短縮できるのか、考えるのも楽しそうです。
新幹線では各路線、各車両で最高速度が定められていますが、これらが全力を出したらどうなるのか、比較してみます。
ここでいう全力とは、水平時の均衡速度だったり、設計最高速度だったりと、車両によって定義は違います。あくまで適当に調べたので。
0系 「東海道・山陽新幹線」
実際:220km/h 全力:235km/h
100系 「東海道・山陽新幹線」
実際:230km/h 全力:276~289km/h
200系 「東北・上越・北陸新幹線」
実際:240km/h 全力:250km/h、下り坂利用で275km/h
300系 「東海道・山陽新幹線」
実際:270km/h 全力:296~325km/h
500系 「東海道・山陽新幹線」
実際:300km/h 水平全力:365km/h
700系 「東海道・山陽新幹線」
実際:285km/h 全力:340km/h
N700系 「東海道・山陽新幹線」
実際:300km/h 全力:少なくとも330m/hは可能
E2系 「東北・上越・北陸新幹線」
実際:260~275km/h 全力:315km/h
E5系 「東北・上越新幹線」
実際:320km/h 3‰上り全力:360km/h
こうしてみると、「100系」は全力を出せば、今の「東海道新幹線」の「のぞみ」並みに出せるようです。
「200系」は、歴代車両の中で、もっともスペック以上の運転をできた列車でしょう。
逆に「500系」は、「E5系」が320㎞/h運転をする15年近くも前に320km/h営業運転を目指し、かなり現実的になりましたが、「兵庫県南部地震」後の安全基準変化や騒音問題で実現しませんでした。
現在最速の「E5系」は、やろうと思えば夢の360km/h運転をできるようです。ただし、その運転ができる区間は、どこまであるのでしょうか?
各車両が全力運転をしたらどこまで時間を短縮できるのか、考えるのも楽しそうです。
かつて世界で一番ホームが離れていた「新三郷駅」
「武蔵野線」の「新三郷駅」は、かつて世界で一番ホームが離れていた駅としてギネスブックに登録されていたことがありました。
「新三郷駅」:昭和60年(1985年)3月14日開業
かつての上下線ホーム間距離:360m
ギネス記録期間:昭和60年(1985年)3月14日~平成11年(1999年)3月20日

(Wikipediaより)
ホーム間が離れていた時代の空中写真です。上下線間には「武蔵野操車場」の跡地があり、本線はそれを挟むように上下線分かれていたため、このような形になりました。平成11年(1997年)3月20日に、両線が下り線側に統合され、このギネス記録は終わりました。
こうなっていた理由
①「武蔵野線」はもともと貨物専用線だったため
今では通勤路線と化している「武蔵野線」ですが、どちらかといえば貨物列車のために造られた貨物専用路線でした。造った目的は、貨物列車の都心部迂回です。その後沿線人口の増加で旅客列車が増発されていきましたが、今でも貨物列車は通ります。
そして「新三郷駅」の場所には操車場とよばれる、広大な貨車置き場がありました。
「武蔵野操車場」は、操車場としては最新式でかつ、「日本」最大の規模でした(全長5.2㎞、幅350m)。しかし、国鉄の経営悪化による貨物運用方針の変更で、僅か10年でその役目を終えました。
②「新三郷駅」はあとから造られた新駅だった
「武蔵野線」が全線開業したのは昭和53年(1978年)ですが、「新三郷駅」が開業したのはその7年後の昭和60年(1985年)です。ちょうど「武蔵野操車場」にあたる場所に完全に後付でつくられたため、こんな構造になりました。
現在ではその操車場跡地で再開発が行われ、「新三郷駅」も、どこにでもあるような普通の駅になっています。
「新三郷駅」:昭和60年(1985年)3月14日開業
かつての上下線ホーム間距離:360m
ギネス記録期間:昭和60年(1985年)3月14日~平成11年(1999年)3月20日

(Wikipediaより)
ホーム間が離れていた時代の空中写真です。上下線間には「武蔵野操車場」の跡地があり、本線はそれを挟むように上下線分かれていたため、このような形になりました。平成11年(1997年)3月20日に、両線が下り線側に統合され、このギネス記録は終わりました。
こうなっていた理由
①「武蔵野線」はもともと貨物専用線だったため
今では通勤路線と化している「武蔵野線」ですが、どちらかといえば貨物列車のために造られた貨物専用路線でした。造った目的は、貨物列車の都心部迂回です。その後沿線人口の増加で旅客列車が増発されていきましたが、今でも貨物列車は通ります。
そして「新三郷駅」の場所には操車場とよばれる、広大な貨車置き場がありました。
「武蔵野操車場」は、操車場としては最新式でかつ、「日本」最大の規模でした(全長5.2㎞、幅350m)。しかし、国鉄の経営悪化による貨物運用方針の変更で、僅か10年でその役目を終えました。
②「新三郷駅」はあとから造られた新駅だった
「武蔵野線」が全線開業したのは昭和53年(1978年)ですが、「新三郷駅」が開業したのはその7年後の昭和60年(1985年)です。ちょうど「武蔵野操車場」にあたる場所に完全に後付でつくられたため、こんな構造になりました。
現在ではその操車場跡地で再開発が行われ、「新三郷駅」も、どこにでもあるような普通の駅になっています。